鉄道の開業まで
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当初の認可では、翌1922年(大正11年)5月いっぱいで軌道敷設工事を終わらせることになっていた。ところが技術者不足で測量すらままならず、完成期限の2週間前になって着工時期の延期願を出すはめになった。このときは「同年8月いっぱい」までに着工するとしていたが、実際にはもっと先まで着工に至らなかった。 この間、1923年(大正12年)に鉱山王の久原房之助が荒金鉱山を買収し、鉱山は久原鉱業の傘下になった。久原は設備投資を行い、坑内の近代化を図った。岩井村営軌道の敷設工事に目処が立ったのも久原によるものだった。系列会社の久原軌道工業から送り込んだ鉄道技術者によって1925年(大正14年)6月末から工事が始まり、12月に完成した(竣工届の日付は翌1926年(大正15年)1月4日付)。「運輸開始日」は1926年(大正15年)1月20日となっている。 鉄道事業の申請時の趣意書には、温泉客は「一ヶ年延人員約10万人を踰(こ)え」なおも「著しく激増の趨勢」としている。一方、鉱山については「年産額約8000トン」としながらも、「近年経済界の恐慌」のため「搬出を中絶」しているとある。当初、国に提出した案では鉱石輸送に頼らずとも、温泉客と若干の農産物の輸送で黒字を見込めるという計画だった。しかし工事が頓挫し、荒金鉱山が久原傘下となったのち、事業計画が大きく変更になった。岩井温泉の駅の位置を大きく変えるとともに、鉱山の鉱石輸送の便をはかることになった。これに伴い、当初予定していた敷設距離「2マイル半(≒4.02km)」から、「2マイル18チェーン(≒3.58km)」に変更になっている。 「岩井町営軌道秘録」を著した安保彰夫は、こうした変更は当初から織り込み済みだっただろうと指摘している。安保によれば、本来は「旅客輸送」のための路線で、しかも路線規模が小さいにもかかわらず、無蓋貨車が「異様に」多く、客車の保有数が3輛に対して無蓋貨車は9輛となっていた。この鉄道事業には県の補助金や町の公金もあてがわれていて、商工会と久原鉱業からの寄付金も含めると、補助金・寄付金収入は鉄道事業そのものの営業収入とほぼ同額にのぼっている。安保は、これらの公的補助金を受けるために、当初は私企業である久原鉱業が関わっていないような形で認可を得たのだろうと推測している。安保は、申請上は旅客輸送のための路線として認可を受けているが、実態は鉱石輸送が「主たる目的」だったと述べている。
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