鉄道の開通と成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/17 08:41 UTC 版)
「コロンバス (ネブラスカ州)」の記事における「鉄道の開通と成長」の解説
1863年にオマハからの大陸横断鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道の建設が始まるまで、コロンバスの町の成長は極めて緩やかなものであった。しかし、ホームステッド法がその前年に制定されたこともあって、 この地を含むグレートプレーンズ地域は入植者を惹きつけ、その移入に伴う交通量が激増した。ループ川の渡し船は舟橋に代えられた。この舟橋は夏季のみ使われ、冬季には撤去された。やがて1866年6月2日、ユニオン・パシフィック鉄道はコロンバスまで開通した。この時の人口は75人であった。 精力的で奇抜な実業家ジョージ・フランシス・トレインは、ユニオン・パシフィック鉄道に沿って大陸を横断する、「街を連ねたハイウェイ」の建設を構想し、コロンバスをその1つと位置付けた。1865年、トレインはコロンバスの土地数百区画を購入した。その翌年、クリーブランドという町の予定地が近くに創られると、トレインはそれをコロンバスでの計画に対する脅威と捉え、その予定地に建っていたたった1軒の建物であったホテルを買い取り、コロンバスに移設し、自分の会社の社名であるクレジット・フォンシャー・オブ・アメリカにちなんでクレジット・フォンシャー・ホテルに改名した。トレインはこのホテルに1部屋だけ、大統領の宿泊用に部屋を永久に空けておいた。また、トレインは、合衆国の首都はその地理重心にあるべきと信じ、「連邦の新しい中心、そしておそらく未来の合衆国の首都」とコロンバスを宣伝した。 プラット郡における農業の発展と鉄道交通の発展の両方が相まって、1870年代にコロンバスは大きく成長し、周辺8郡にまたがる地域の通商の中心地になった。1875年にブラックヒルズでゴールドラッシュが起こると、コロンバスの商人たちはこの町を、金を掘り当てようとする者たちがその準備や身支度をし、鉄道で金鉱へと発つ地として宣伝した。 1879年、コロンバスは鉄道会社の争いの舞台となった。この年、バーリントン・アンド・ミズーリ川鉄道(現BNSF鉄道)はリンカーンからコロンバスを経由して州北西部へと通ずる路線の建設を提案し、建設費100,000ドルの債券発行を可決するようプラット郡の住民を促した。すると、ユニオン・パシフィック鉄道に出資していた資本家ジェイ・グールドはこの路線との競合を恐れ、法案を通したら全力でコロンバスを寂れさせると脅迫したが、法案は可決された。バーリントン・アンド・ミズーリ川鉄道はリンカーンからの路線をコロンバスに開通させたが、提案とは異なり、コロンバスをその路線の終着とした。ネブラスカ州を斜めに走る同社の路線は、コロンバスではなく、グランドアイランドでユニオン・パシフィック鉄道と交差するように建設された。これに対し、グールドはユニオン・パシフィック鉄道の子会社オマハ・ナイオブララ・アンド・ブラックヒルズ鉄道を、コロンバスの北西、ロストクリークでループ川を渡らせ、そのまま南下してコロンバスを経由することなく、ジャクソン(後にダンカンに改名)でユニオン・パシフィック鉄道本線に合流させるように建設させるという形で報復した。しかし1881年、ロスト・クリーク橋が詰まった河氷によって破壊され、これがコロンバスにとって幸運となった。最終的には、ユニオン・パシフィック鉄道は市から25,000ドルの寄付金を受け取る代わりに、コロンバスまでループ川北岸を通るようにこの路線の経路を変更することに合意した。
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鉄道の開通と成長
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「ノーフォーク (ネブラスカ州)」の記事における「鉄道の開通と成長」の解説
サウスダコタ州のブラックヒルズで金が発見されると、フリーモント・エルクホーン・アンド・ミズーリバレー鉄道が建設された。この鉄道はオマハからエルクホーン川流域を遡り、そこからネブラスカ州北部を横切ってサウスダコタ州へと入るものであった。ノーフォークにこの鉄道が開通したのは1879年であった。翌1880年には、ユニオン・パシフィック鉄道の子会社オマハ・ナイオブララ・アンド・ブラックヒルズ鉄道が、コロンバスの西、ダンカンで本線から分岐(のちにコロンバスからの分岐に変更)して北進し、ノーフォークへと開通した。その翌々年、1882年には、シカゴ・セントポール・ミネアポリス・アンド・オマハ鉄道がノーフォークまで開通した。 これらの鉄道の開通により、ノーフォークは大きく発展した。1886年には市の人口が1,000人を突破し、第2級都市へと昇格した。翌1887年には路面電車が開通し、また水道網が整備された。さらにその翌年、1888年には、ネブラスカ電灯会社の電線、およびネブラスカ電話会社の回線が開通した。 1885年、ネブラスカ州議会の決議により、ノーフォーク精神病院が建てられ、1888年に最初の患者を受け入れた。同院はその後1920年にノーフォーク州立病院に、1962年にノーフォーク地域センターに改称した。現在では、同院は120床を有する、性犯罪者更生の初期段階の治療を行う施設となっている。
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