釜山と東萊城の攻略とは? わかりやすく解説

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釜山と東萊城の攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「釜山と東萊城の攻略」の解説

天正20年4月12日午前8時、日本軍一番隊宗義智小西行長700艘の大小軍船対馬大浦出発し午後2時過ぎ釜山上陸した絶影島にいた釜山僉使鄭撥は偶然この船団に出くわして慌てて城に戻った。義智は「仮途入明」を求めるという内容の書を投じて念のため服従意思再度確認したが、無視された。13日朝、義智は釜山鎮城郭への攻撃開始し昼までに城は落城した。鄭撥釜山僉使)は戦死し日本軍が斬った首は1,200余りにのぼった(甫庵太閤記では斬首8,000)。同じ頃、行長多大鎮の砦を攻撃したが、これは一昼夜かかり、夜襲して翌日陥落させた。多大鎮守備隊指揮官多大浦僉使)尹興信は戦死した。時を同じくして、西平浦の砦も陥落した。これによって釜山周辺鎮圧完了した詳細は「釜山鎮の戦い」および「多大鎮の戦い」を参照 朝鮮軍緒戦衝撃的な大敗をして釜山周辺沿岸部分を失った朝鮮水軍の方でも、慶尚使泓が慶尚水営釜山佐自川)を棄てて山中逃亡巨済島慶尚水営から急行した慶尚使元均は、地域一帯混乱広がって為すすべがないまま、敵に奪われるのを恐れ、ほとんど全ての水軍船舶(主力艦板屋船を含む)を戦わずして沈めると、玉浦万戸李雲龍、所非浦李英男、永登万戸禹致績らを連れて、4隻に分乗して昆陽撤退した。なお、朝鮮史書懲毖録』では元均自重して交戦控えたとされるが、『燃藜室記述』では元均巨済島から出撃したもの地元漁船敵船誤認して自ずから潰走し、彼が留守にした慶尚水営ではパニック起こって逃げ惑って圧死する者があったり、倉庫に火をつけて逃げる者があって、営が焼失して帰る場所なくなったため加徳島撤退したと書かれている。さらに『懲毖録』では元均李英男の提言入れて隣接する管区である全羅使李舜臣救援求めたが、李舜臣管轄外であり朝鮮朝廷の命令がないので越権行為でもあるとして5-6度も頑なに拒否したとある。『燃藜室記述』では、李舜臣だけでなく全羅使李億祺全羅左水営麗水)に集っていたが、共に元均救援要請無視光陽県監泳潭は諸将国難前に協力しない態度憤慨してこれを諫めたが、李舜臣答えなかったという。 いずれにしても慶尚道水軍消滅し全羅道水軍救援拒否したことで、日本軍後続隊は朝鮮水軍煩わされることなく上陸できるようになった朝鮮水軍以後半月間ほど沈黙して目立った行動を採らなかった。 慶尚左兵使李玨兵営城(蔚山北方)より来て、一旦、東萊城に入ったが、釜山鎮陥落悲報受けて怯え、城を逃げ出しそうとした。東萊府使宋象賢押し留め一緒に戦おう説得した無駄だった李玨僅かな手勢と城を抜け出し山駅に陣を敷いた4月14日-15日日本軍東萊城に次々と到着した小西行長は「戦わば即ち戦え、戦わざれば即ち道を假(か)せ」と書いた木札投じたが、宋象賢木札投げ返して「死ぬは易く、道を假す難し」と伝えて要求拒絶した日本軍15日明け方襲撃し、2時間東萊城は落城朝鮮軍3000人が戦死し500人が捕虜となった宋象賢東萊府使)は殺害され、洪允寛(助防将)、趙英珪(梁山郡守)、宋寿(代将)、盧邦(東萊教授)ら諸将戦死し李彦誠(蔚山郡守)が捕虜となった詳細は「東萊城の戦い」を参照 4月15日日本軍はこの日さらに無人慶尚水営機張占領した慶尚道巡察使金睟は晋州から東萊向かっていたが、落城知って北の大邱向かった。日が暮れてから宗義智隊は梁山到達し偵察中に鉄砲を射かけたところ、朝鮮城兵驚愕して城を捨てて潰走した。無人となった梁山城を翌朝早く小西主殿助率い小西・宗両隊先発隊が占領した城内そのまま残されていた大量の酒と食事兵士達群がり貪り食って休息した。(梁山城の戦い4月16日早朝釜山から逃げ続けた泓がついに漢城府首都)に達して朝鮮朝廷に日本軍襲来外寇)を報じた大臣備辺司一同国王宣祖面会求めたが、機嫌悪くて許されなかった。それで国王抜きで体制協議し後日上奏する形として、巡察使名将鎰を任命して中路を、左防禦使に成応吉、右防禦使に趙儆をそれぞれ任命して西路東路防備させることとし、助防将に劉克良と邊璣を任命して竹嶺と嶺を守らせることにした。また慶州府尹の尹仁涵が臆病者だというので罷免し、邊応星を新たに任命した。しかし、派遣すべき兵士はおらず諸将軍官だけを連れて兵は追々集めることになったが、文官偏重国是のために軍官として登録されていた者すら儒生官吏などばかりで出征辞退するものが続出した鎰は3日間も出立が遅れ、結局300名の精兵後日別将が率いて後から来ることになり、60名の軍官だけを連れて南下した

※この「釜山と東萊城の攻略」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「釜山と東萊城の攻略」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

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