釜山と東萊城の攻略
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「文禄・慶長の役」の記事における「釜山と東萊城の攻略」の解説
天正20年4月12日午前8時、日本軍の一番隊の宗義智と小西行長は700艘の大小軍船で対馬・大浦を出発し、午後2時過ぎに釜山に上陸した。絶影島にいた釜山僉使鄭撥は偶然この船団に出くわして慌てて城に戻った。義智は「仮途入明」を求めるという内容の書を投じて、念のために服従の意思を再度確認したが、無視された。13日朝、義智は釜山鎮の城郭への攻撃を開始し、昼までに城は落城した。鄭撥(釜山僉使)は戦死し、日本軍が斬った首は1,200余りにのぼった(甫庵太閤記では斬首8,000)。同じ頃、行長も多大鎮の砦を攻撃したが、これは一昼夜かかり、夜襲して翌日に陥落させた。多大鎮守備隊指揮官(多大浦僉使)尹興信は戦死した。時を同じくして、西平浦の砦も陥落した。これによって釜山周辺の鎮圧が完了した。 詳細は「釜山鎮の戦い」および「多大鎮の戦い」を参照 朝鮮軍は緒戦で衝撃的な大敗をして釜山周辺の沿岸部分を失った。 朝鮮水軍の方でも、慶尚左水使朴泓が慶尚左水営(釜山佐自川)を棄てて山中へ逃亡。巨済島の慶尚右水営から急行した慶尚右水使元均は、地域一帯に混乱が広がって為すすべがないまま、敵に奪われるのを恐れ、ほとんど全ての水軍船舶(主力艦の板屋船を含む)を戦わずして沈めると、玉浦万戸李雲龍、所非浦権管李英男、永登万戸禹致績らを連れて、4隻に分乗して昆陽へ撤退した。なお、朝鮮の史書『懲毖録』では元均は自重して交戦を控えたとされるが、『燃藜室記述』では元均は巨済島から出撃したものの地元の漁船を敵船と誤認して自ずから潰走し、彼が留守にした慶尚右水営ではパニックが起こって逃げ惑って圧死する者があったり、倉庫に火をつけて逃げる者があって、営が焼失して帰る場所がなくなったため加徳島に撤退したと書かれている。さらに『懲毖録』では元均は李英男の提言を入れて隣接する管区である全羅左水使李舜臣に救援を求めたが、李舜臣は管轄外であり朝鮮朝廷の命令がないので越権行為でもあるとして5-6度も頑なに拒否したとある。『燃藜室記述』では、李舜臣だけでなく全羅右水使李億祺も全羅左水営(麗水)に集っていたが、共に元均の救援要請を無視。光陽県監魚泳潭は諸将が国難を前に協力しない態度に憤慨してこれを諫めたが、李舜臣は答えなかったという。 いずれにしても、慶尚道水軍は消滅し、全羅道水軍が救援を拒否したことで、日本軍の後続隊は朝鮮水軍に煩わされることなく上陸できるようになった。朝鮮水軍は以後半月間ほど沈黙して目立った行動を採らなかった。 慶尚左兵使李玨は兵営城(蔚山の北方)より来て、一旦、東萊城に入ったが、釜山鎮陥落の悲報を受けて怯え、城を逃げ出しそうとした。東萊府使宋象賢は押し留めて一緒に戦おうと説得したが無駄だった。李玨は僅かな手勢と城を抜け出し蘇山駅に陣を敷いた。4月14日-15日、日本軍が東萊城に次々と到着した。小西行長は「戦わば即ち戦え、戦わざれば即ち道を假(か)せ」と書いた木札を投じたが、宋象賢は木札を投げ返して「死ぬは易く、道を假すは難し」と伝えて、要求を拒絶した。日本軍は15日の明け方に襲撃し、2時間で東萊城は落城、朝鮮軍は3000人が戦死し、500人が捕虜となった。宋象賢(東萊府使)は殺害され、洪允寛(助防将)、趙英珪(梁山郡守)、宋鳳寿(代将)、盧蓋邦(東萊教授)ら諸将も戦死し、李彦誠(蔚山郡守)が捕虜となった。 詳細は「東萊城の戦い」を参照 4月15日、日本軍はこの日さらに無人の慶尚左水営と機張を占領した。慶尚道巡察使金睟は晋州から東萊に向かっていたが、落城を知って北の大邱に向かった。日が暮れてから宗義智隊は梁山に到達し、偵察中に鉄砲を射かけたところ、朝鮮城兵は驚愕して城を捨てて潰走した。無人となった梁山城を翌朝早くに小西主殿助率いる小西・宗両隊先発隊が占領した。城内にそのまま残されていた大量の酒と食事に兵士達は群がり、貪り食って休息した。(梁山城の戦い) 4月16日早朝、釜山から逃げ続けた朴泓がついに漢城府(首都)に達して朝鮮朝廷に日本軍襲来(外寇)を報じた。大臣や備辺司の一同は国王宣祖に面会を求めたが、機嫌が悪くて許されなかった。それで国王抜きで体制を協議し、後日上奏する形として、巡察使に名将李鎰を任命して中路を、左防禦使に成応吉、右防禦使に趙儆をそれぞれ任命して西路と東路を防備させることとし、助防将に劉克良と邊璣を任命して竹嶺と鳥嶺を守らせることにした。また慶州府尹の尹仁涵が臆病者だというので罷免し、邊応星を新たに任命した。しかし、派遣すべき兵士はおらず、諸将は軍官だけを連れて兵は追々集めることになったが、文官偏重の国是のために軍官として登録されていた者すら儒生や官吏などばかりで出征を辞退するものが続出した。李鎰は3日間も出立が遅れ、結局、300名の精兵は後日別将が率いて後から来ることになり、60名の軍官だけを連れて南下した。
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