金賢姫のその後
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「大韓航空機爆破事件」の記事における「金賢姫のその後」の解説
「金賢姫」も参照 金賢姫は韓国における1年間の取調べの後、「トランジスタラジオにセットした時限爆弾で858便を爆破した」と認定され、韓国の国家保安法、航空法、航空機運航安全法違反で1989年2月3日に起訴された。韓国の裁判所は一・二審とも死刑判決を下し、1990年3月27日に確定した。 しかし、盧泰愚大統領は「事件の生き証人」という政治的な配慮から、事件遺族の抗議の中、4月12日に特赦した。また5月16日にはソウルの教会で取材が行われ、キリスト教への入信と北朝鮮の体制批判をした。6月20日に行われた会見で飛び出した話の一つが前述の「李恩恵」の話であった。その後、1997年に韓国国家安全企画部(現・国家情報院)部員と結婚し子供も授かったほか、自伝も出版した。なお金に対し日本では「元死刑囚」ないし「元工作員」という呼称が付けられて報道されている。 1997年以降は、公式の場から姿を消していたが、これは盧武鉉など革新政権が、北朝鮮に融和的な太陽政策を採っており、金の存在を目立たなくするための措置との指摘 もある。2004年12月、ソウルの検察当局は訴訟を受けて、事件関連記録のうち、個人情報関係を除く全てについて情報公開を決定した。これについて金は、北朝鮮の工作員として関与した事件を否定するようにと、当時の韓国政府からの圧力だったと後に主張している。 2008年には、金が当時の政権によって捏造されたとする説に対して、知人宛の手紙を通じて反論している。この手紙は北韓民主化フォーラムの李東馥代表の手に渡り、11月25日に自身のホームページで内容を公開した。それによれば、金は2003年にある報道番組への出演を要請されたが、当時は盧武鉉政権下で国家情報院といった政府機関や、マスコミが事件捏造説を盛り上げていたこと、前述の番組を放送するテレビ局が政権寄りだったことから、出演すれば事件に関して偽証していると仕立て上げられることを警戒し、出演を拒否したこと、さらに番組への出演を断ったためか、非公開のはずの自宅にマスコミが押しかける嫌がらせを受けたと主張している。 2009年3月11日に、釜山で田口八重子の兄および実子と会談したが、この場において金は「大韓航空機爆破事件は私がやったことだ。北朝鮮によるテロに間違いない」とした後に、一部から出ている捏造説を「残念だ」と一蹴した。また「盧武鉉政権時代に、情報機関の国家情報院に、捏造説を認めるよう強いられていた」という趣旨の発言をして、捏造であったことを認めるように、政府から迫られたと主張している。 なお、金は現在に至るまで事件の犠牲者遺族と対面や対話などをしていない。そのため、日本人拉致被害者と会談するにあたり、遺族会が韓国政府に金が事件の遺族に会わないことを非難する申し入れをした。 事件当時、アンゴラ駐在の北朝鮮貿易代表部の水産代表だったとされる金の父一家の消息は事件後不明となっており、強制収容所にいるという説があったが、2012年1月にアジアプレス・ネットワークが伝えるところでは、一家と親しかった脱北者の話として支配階層が居住する平壌から、1988年に日本海側にある咸鏡北道・清津市に、一家は強制移住させられ、現在も厳しい監視下におかれているという。それによれば父と姉は死亡、母は高齢であるが生存しており、大学を中退させられた弟一家が生活を支えているという。 文在寅政権発足後は、韓国国内で従北勢力が活発化したことに伴い、司法もその影響を強く受けることとなり、2018年7月26日には、本事件が全斗煥による自作自演の反共テロであると唱える家族会への批判が「名誉毀損である」として、刑事事件化されたことが報じられた。
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