金属アルミニウムの生成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 01:48 UTC 版)
「アルミニウムの歴史」の記事における「金属アルミニウムの生成」の解説
1760年、フランスの化学者テオドール・バロン・デノヴィユ(フランス語版)はアルミナが金属の土と信じていると宣言し、アルミナを金属に還元しようとしたが失敗した。彼が実際に使用した手法は記録されていないが、彼は当時知られていた還元法を全て使用したと主張した。明礬を炭か何らかの有機物と混合して、融剤として塩か炭酸を使い、木炭の火でできるだけ熱く焼いた可能性が高い。1782年、フランスの化学者アントワーヌ・ラヴォアジエはアルミナが金属の酸化物で、その金属と酸素の親和力が高くて、当時知られていた還元剤では還元できないと記述した。彼はそれをアルミーヌ(Alumine)と命名した。 1790年、オーストリアの化学者アントン・レオポルト・フォン・ループレヒト(スロバキア語版)とマテオ・トンディ(イタリア語版)はテオドール・バロン・デノヴィユの実験を、温度を大幅に上げて再現した。実験の成果物に小さな金属粒が見られ、彼らはそれを長らく作製が試みられてきた金属と信じていたが、後にほかの化学者による実験でそれが木炭と骨灰の不純物であるリン化鉄(III)(英語版)と証明された。神聖ローマ帝国の化学者マルティン・ハインリヒ・クラプロートは後に「もし金属の本質(もしそれがあれば)が明らかにされるはずの状況に置かれてきた土類が存在したら、大規模でも小規模でも全ての方法で最も熱い火で試され、還元するための実験に晒される土類が存在したら、それはアルミナである。しかし、その金属化を目撃した者はいなかった。」と記述した。ラヴォアジエは1794年に、フランスの化学者ルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボーは1795年にそれぞれ木炭と純酸素を使用してアルミナを融解して白い液体にしたが、金属は発見できなかった。米国のロバート・ヘア(英語版)は1802年に酸水素ガス吹管でアルミナを融解し、モルボーと同様の成果を得たが、やはり金属は発見できなかった。 1807年、イギリスの化学者ハンフリー・デービーはアルカリ電池でアルミナの電気分解に成功したが、形成した金属にはアルカリ金属のナトリウムとカリウムが含まれ、デービーにはアルミニウムをそれらから分離する手立てがなかった。彼は続いて金属カリウムとアルミナの混合物を加熱、酸化カリウムを形成したが、アルミニウムは発見できなかった。翌1808年、デービーは別のアルミナ電気分解実験を行い、アルミナがアーク放電の中で分解されることを実証したが、形成した金属が鉄と合金を形成してしまい、デービーはその分離ができなかった。デービーはさらなる電気分解実験を試み、鉄でアルミニウムを収集しようとしたが、やはりその分離に失敗した。デービーは実験中の1808年に新しい金属の名前に「アルミアム」(alumium)を提唱、1812年には「アルミナム」(aluminum)を提唱し、この名が現代にいたるまで使用されることになった。他の科学者は「アルミニウム」(aluminium)を使用したが、米国では現代までaluminum(アルミナム)が使われている。 1813年、米国の化学者ベンジャミン・シリマンはヘアの実験を再現、アルミニウムの小粒を作り出すことに成功したが、小粒はほぼ即座に燃えてしまった。 1824年、デンマークの物理学者、化学者ハンス・クリスティアン・エルステッドは金属アルミニウムの作製に成功したと主張した。彼は無水(英語版)の塩化アルミニウムとカリウム合金で化学反応を起こさせ、見た目がスズに似ている金属の塊を得た。彼は1825年に結果を発表、新金属のサンプルを展示した。1826年、「アルミニウムは金属の光沢があり、やや灰色で、かなり緩やかに水を分解する」と記述した。この記述は彼が得た金属が純アルミニウムではなく、アルミニウムとカリウムの合金であることを示唆している。エルステッドも自身がアルミニウムを得たとは信じず、この発見の重要性を低くみた。また別の文献ではエルステッドが財政問題により研究を継続できなかったとしている。エルステッドが研究をヨーロッパ大衆に知られていないデンマークの雑誌で発表したため、アルミニウムの発見者とされないことが多く、初期の文献の一部はさらにエルステッドがアルミニウムの分解に成功しなかったと主張した。 ベルセリウスは1825年にアルミニウムの分離を試みた。彼は氷晶石(Na3AlF6)と似ているK3AlF6をるつぼの中で用心深く洗い、実験前の物質の化学式も正しく認識した。彼は金属を発見できなかったが、実験は成功にかなり近く、後に度々再現に成功した。ベルセリウスが失敗した理由はカリウムを大量に使ったことで、溶液のpHが上昇し、塩基性が強過ぎたために形成したアルミニウムを全て溶かしたことである。 1827年、ドイツの化学者フリードリヒ・ヴェーラーはエルステッドの実験を再び行ったが、アルミニウムは発見できなかった。彼は後にベルセリウスに手紙を書き、「エルステッドがアルミニウムの塊と仮定したものは確実にただのアルミニウムを含有するカリウムである」と述べた。彼は続いて似たような実験を行った。その内容は無水の塩化アルミニウムとカリウムを混ぜることであり、アルミニウム粉末の作製に成功した。彼は研究を続け、1845年に小さなアルミニウムの塊を作製することに成功、その物性を記述した。しかし、ヴェーラーの記述はそれが不純物を含むアルミニウムだったことを示している。ヴェーラーなどほかの科学者がエルステッドの実験を再現できなかったことはエルステッドが金属アルミニウムの発見者とされない理由の1つになり、逆にヴェーラーは1845年の実験の成功とその詳細が発表されたことで金属アルミニウムの発見者とされた。エルステッドとヴェーラーの実験結果が異なった理由は1921年にようやくデンマークの化学者ヨハン・フォー(Johan Fogh)によって発見された。彼は、エルステッドの実験が成功したのは大量の塩化アルミニウムとカリウムの含有量が少ないカリウム合金を使用したためだったことを示した。
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