転機・量産メーカーに
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 21:32 UTC 版)
「アルファロメオ」の記事における「転機・量産メーカーに」の解説
終戦後、ウーゴ・ゴバートの後を受けてアルファロメオのトップとなったパスカレー・ギャッロと新たに自動車部門のゼネラル・マネージャーになったアントニオ・アレジオの指揮によって自動車生産の立て直しが図られ、若き設計者オラツィオ・サッタに新車開発が委ねられた。1947年、戦前の高級スポーツカー「6C」シリーズに改良を加えて生産を再開。そしてカロッツェリア・トゥーリングの手になる美しいボディをまとった「6C 2500」は、ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスで優勝し、世界一優美な車として賞賛された。これを記念して、このタイプは「6C 2500 Villa D'Este(ヴィラ・デステ)」と呼ばれる。 1948年に、経営母体が公企業のIRI(イタリア産業復興公社)により設立された機械産業持株会社のフィンメッカニカ管理下になり「S.A. アルファロメオ」から「アルファロメオ・S.P.A.」(Alfa Romeo Società per Azioni)に改組する。以降、民営化でフィアット傘下となるまで「国営時代」と通称される。 1950年、超高級・高性能スポーツカーやGTを少数生産するという戦前までのスタイルを自ら捨て去り、新型の「1900」シリーズを引っさげてより確実な利益を見込める大衆量産車メーカーへと転身した。しかしながら量産車であるはずの「1900」も、後輪独立懸架こそ廃されたものの、新開発の4気筒DOHCエンジンをはじめ、レースカーで培った高度な技術を惜しみなく投入して開発されていた。 1954年、この時代のイタリアを代表する小型高性能車として名車の誉れ高いジュリエッタシリーズがデビュー。諸事情があって、アルファロメオの伝統を破り、最初にセダンボディではなく、クーペボディの「スプリント(英語版)」が登場した。エンジンはアルファの伝統に則ったDOHCで、1,300 ccの小排気量ながら最高速160 km/hという、当時としてはかなりの高性能車だった。「ジュリエッタ」はファミリーカーとしても成功を収める一方、その素性が買われ、多くのエントラントの手で数多のツーリングカーレースや公道レースに参戦、イギリスや西ドイツの小型車と激戦を繰り広げた。 1962年、この年、本拠地がミラノ郊外アレーゼへと移された。そして戦後アルファのイメージを決定づけたジュリアシリーズがデビューする。この車もまた、オールアルミブロックの高性能DOHCエンジン、熱伝導に優れたソジウム封入排気バルブの使用、5速トランスミッション、4輪ディスクブレーキなど当時としては先進的な機能の搭載によって、同クラスの車と比べても高い性能を誇った。ジョルジェット・ジウジアーロがデザインした美しいボディのクーペモデルは、今なお戦後アルファの代表格として語られている。 「ジュリア」シリーズは、新車開発に十分な投資ができないこともあり、排気量の増大によって排出ガス規制を乗り切り、長期にわたって生産された。特にダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」にも登場した派生モデルの「スパイダー」(デュエット)はクーペの生産終了後、完全に時代遅れのシャシー性能と動力性能となりながらも、アメリカでの根強い人気に支えられ、マイナーチェンジを繰り返し、フィアットの血を入れた新しいスパイダーモデルが発表されるまで生き延びた。
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