転機となった根岸ステークス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 08:25 UTC 版)
「ブロードアピール」の記事における「転機となった根岸ステークス」の解説
ブロードアピールの転機ともいえるのが、3戦目のダート戦となった第14回根岸ステークスである。デビュー以来ダート戦では2戦2勝であったが、芝のレースを重点的に使われそれなりの成績を残していた。しかしながら前述の栗東ステークスでのレコード勝ちという実績もあり1番人気に支持されることとなった。鞍上にシルクロードステークスで騎乗した武幸四郎を起用してのレースは最後方からのスタートとなり、先頭が残り400メートルの標識を通過する直前まで最後方に位置していたが、そこから後に鬼脚と呼ばれる末脚を見せる。直線だけで7馬身以上離れ、更に残り200メートル標識通過時点で5馬身ほど離れた先頭を差し切り、逆に2着のエイシンサンルイスに1 1/4差をつけて重賞2勝目を飾った。 記録の残る1984年から当レース以前までに、ダートの良馬場1200mで上がり3ハロンを34秒台で勝った馬は3頭しかいないばかりか34秒8が最速であったため、ブロードアピールの34秒3はそれらを大きく上回る記録であった。その後、当レースから2021年11月12日までの期間で上がり3ハロン34秒3以上を記録したのは、2002年ガーネットステークスでブロードアピールが再び記録した34秒3と、シルクフォーチュンの34秒1(2010年 出石特別)のみである。 このときのレースがあまりにも衝撃的であったためか、JRAにおける2007年の年間キャンペーン「FEEL LIVE」の特設サイトで行われた「FEEL LIVE ベストテン」と称するレース投票企画では、用意されている20候補のなかにブロードアピールが勝利を収めた第14回根岸ステークスも含まれている。 この勝利以降もダート短距離のレースを走り続け、2001年のプロキオンステークスを制した際には、鞍上のケント・デザーモが「飛んでいるようだった」とコメントを残した。8歳になった2002年の年明けにはガーネットステークスを勝利する。JRAで8歳牝馬が平地重賞を勝ったのはこの馬が初めてである(交流重賞では後に牝馬のメイショウバトラーが平地重賞マリーンカップを8歳、9歳時に連覇している)。そしてその年のドバイゴールデンシャヒーンにも参戦し、5着という戦績を残して引退した。GII以上での最高着順は第1回JBCスプリントでの2着。 ダートのレースでの安定感は抜群であった。引退レースとなった前述のドバイゴールデンシャヒーンでの5着を除いたダート戦においては全て3着以内を確保しており、日本国内でのダート戦では全て3着以内を確保しているが、その内訳も1着7回・2着2回・3着2回と勝率にして63%・連対率にして81%にもなる。直線での末脚に賭ける追い込み馬は、その末脚が不発だと大敗を喫するケースがあることを考慮に入れると、この数値は優秀である。 ブロードアピールは短距離路線を中心に使われ、1600メートルを超えるレースには一度も出走していない。ダート戦に限定すると全て1400メートル以下のレースに出走している。
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