貞観の治
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貞観の治(じょうがんのち)は、中国唐(618年 - 907年)の第2代皇帝太宗の治世、貞観(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世に政治的な理想時代とされた。
わずかな異変でも改元を行った王朝時代において、同一の元号が23年も続くというのはまれであり、その治世がいかに安定していたかが窺える。
この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い))との評がある。
この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられ、長く政治のテキストとして用いられた。
2代目の太宗(李世民)の治世、国内の平定と対外進出を行い、各制度を整備した。 隋の制度を踏襲し、戸籍に基づき一体的に運用した。
土地の制度では、均田制を継承した。官僚は官人永業田を世襲し、荘園を形成した。
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貞観の治
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即位して長孫氏を皇后に立てた太宗は、その直後に和議を結んでいた突厥の侵攻を受けた。『旧唐書』などの史書によれば、怒りにまかせた太宗はわずか6騎を伴い、渭水に布陣した突厥軍の前に立ち、突厥の協定違反を責めた。その態度に恐れをなした突厥は唐から引き上げた、と記録されているが、これは太宗の勇猛さを誇張した内容であり、太宗を追った唐軍との対決を避けて撤退したとも、または突厥に対し貢物を贈り撤退を依頼したとも言われている。この事件は渭水の盟(中国語版)もしくは渭水の辱と呼ばれる。 627年、元号を貞観と改元した。房玄齢・杜如晦の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように努めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため、唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。 629年(貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣・李靖を登用して出兵し、630年(貞観4年)には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し、太宗に天可汗(中国語版)の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗よりさらに上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。さらに640年(貞観14年)、西域の高昌国を滅亡させ、西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。 文化的にも、それまでまとめられていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら注釈を行った。また645年(貞観19年)には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており、太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。 これらの充実した政策により、太宗の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。『旧唐書』では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。後世、太宗と臣下たちの問答が『貞観政要』として編纂されている。
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