貞観噴火の推移
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以下は、当時の歴史書『日本三代実録』の記述による。 貞観6年5月25日(864年7月2日)、駿河国の報告 富士郡正三位浅間大神大山火、其勢甚熾、焼山方一二許里。光炎高二十許丈、大有声如雷、地震三度。歴十余日、火猶不滅。焦岩崩嶺、沙石如雨、煙雲鬱蒸、人不得近。大山西北、有本栖水海(みずうみ)、所焼岩石、流埋海中、遠三十許里、広三四許里、高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。(※ここでいう1里は6町=約650m。「〜許里」は「〜里ばかり」の意) 現代語訳「富士郡の正三位浅間大神大山が噴火した。その勢いは甚だ激しく、1、2里四方の山を焼き尽くした。火炎は20丈の高さに及び、大音響は雷のようで、大地震が3回あった。10日以上経過しても、火の勢いは未だ衰えない。岩を焦がし峰を崩し、砂や石が雨のように降る。煙や雲が鬱々と立ち込め、人は近づくことができない。富士山の西北にある本栖湖という湖に焼け石が流れ込んだ。焼け石の流れは長さ約30里、広さ3、4里、高さ2、3丈に及ぶ。やがて火は甲斐国との境に達した」 約2か月後の7月17日(8月22日)、甲斐国の報告 駿河国富士大山、忽有暴火、焼砕崗巒、草木焦殺。土鑠石流、埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯、魚鼈皆死。百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記。両海以東、亦有水海、名曰河口海;火焔赴向河口海、本栖、剗等海。未焼埋之前、地大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難弁、然後有此災異焉。 現代語訳「駿河国の富士山が大噴火した。峰を焼き砕き、草木は焦がれ死ぬ。土や石くれが流れて、八代郡の本栖湖と剗の海を共に埋めた。湖水は熱湯になり、魚や亀の類は全滅してしまった。民家は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、そのような例は数え上げることもできない。ふたつの湖の東には河口湖という湖があり、火はこの方角にも向かっている。湖が焼け埋まる前に大地震があり、雷と豪雨があり、雲や霧が立ち込めて暗闇に包まれ、山と野の区別もつかなくなった。しかる後に、このような災厄が訪れたのだ。」 8月、朝廷では甲斐国司に対して浅間神社の神を奉じて鎮謝するよう命じている。しかし貞観7年(865年)年末の記録に「災異いまだ止まず」とあることから、この時期まで2年間に渡り、噴火活動が継続していたことが伺える。
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