評価と論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 03:16 UTC 版)
詳細は「ノーベル賞を巡る論争」を参照 ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、そして当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどが理由と考えられている。 1929年の生理学・医学賞はビタミンB1の発見によりオランダのクリスティアーン・エイクマンに贈られているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)が存在することを示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニンとして分離・抽出したのは日本の鈴木梅太郎である。 1926年の生理学・医学賞は寄生虫によるガン発生を唱えたデンマークのヨハネス・フィビゲルに贈られ、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されている。 ポルトガルのエガス・モニスはロボトミー手術を確立したことで1949年の生理学・医学賞を受賞しているが、ロボトミーは効果が限定的であるにもかかわらず副作用や事故が多く、またその後向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいなかった。 文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがあったが、1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチルが自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義をめぐる論争が起こった。結局これ以降、2016年にアメリカのシンガーソングライター・ミュージシャンのボブ・ディランが受賞するまで純文学の著者による受賞が続くことになる。 戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともある。キャンプ・デービッド合意によりエジプトとイスラエルの間に和平をもたらしたことが評価され、1978年の平和賞はエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギン首相に贈られたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために第四次中東戦争を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身だった。結果的にサダトの狙いは的中したが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となった。一方、サダトとベギン両首脳に実に12日間にもわたってワシントンD.C.郊外の大統領保養地キャンプ・デービッドを自由に使わせ、難航する和平会談の成功に奔走したアメリカのジミー・カーター大統領が、この両首脳とともに平和賞を受賞しなかったことに対しては疑問を唱える声が各方面から上がった。そのカーターには2002年になって「数十年間にわたり国際紛争の平和的解決への努力を続けた」ことなどを理由に、遅ればせながらの平和賞が贈られている。 平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがあることから、受賞者の国の政府から反発を受けることがよくある。その例として、ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキー、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフ、中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世、ポーランド民主化運動を主導した「連帯」のレフ・ワレサ、南アフリカの人種隔離政策を批判したデズモンド・ツツ主教、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチー、中国の人権侵害を批判し民主化を訴えた劉暁波などが挙げられる。 1958年に文学賞を受賞したボリス・パステルナークは、ソ連政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。それでもノーベル委員会は彼に一方的に賞を贈っている。 1925年に文学賞を受賞したバーナード・ショーは、ノーベル賞について「ダイナマイトを発明したのは、まだ許せるとしても、ノーベル文学賞を考え出すなんて言語道断だ」「殺生と破壊の手段であるダイナマイトを発明して金を儲けたノーベルの罪も大きいが、世界の人材を序列化するノーベル賞を作ったのは最もゆるせない罪だ」などと皮肉し、受賞するまでに何度も受賞を拒んだことがある。
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