計画の変遷
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奈良電気鉄道線の建設計画を進めた浅井郁爾技師長を筆頭とする同社技術陣は、京都起点4マイル6チェイン(約6.6km)付近の宇治川(澱川)を渡河するにあたって、当初は沿線に存在するもう一つの大河である木津川を渡る木津川橋梁と同様、河中に6本の橋脚を立てて70フィート(21.336m)プレートガーダー桁7連を架設する案に従って橋梁の具体設計を進めており、架橋を予定した地点の周辺には帝国陸軍の演習場(渡河訓練場)、そしてその北側には工兵大隊の工営が設置されていた。奈良電気鉄道は、工事速成のため工兵隊用地の一部について土地交換を申請した。それを受け師団側では調査を行い、本省へ伺いを出した。 16師団条件と陸軍省の決定条件をまとめたものが以下の表になる。 16師団条件陸軍省決定条件備考軍用地1235坪4合と奈良電用地5万3137坪の交換 1235坪の払下げ(西側作業場539坪+練兵場696坪)東側作業場700坪の保留・減少した敷地増加と作業場新設の研究 減少した敷地は増加もなく、作業場新設もされることはなかった。 橋梁の無橋脚化 一基までの設置を認める 奈良電側の判断にて無橋脚にて架橋 工事期間の内7月から10月までは禁止 条件無し 工事は規制なく行われ、5月頃の杭打ちは工兵隊施工 演習場附近高架下は陸軍・一般交通供用 条件無し 橋脚に関しては一基まで認めるというものであったが、奈良電気鉄道側は回答を待たずに代案に着手することとなる。 ちょうどこの時期、即位したばかりの昭和天皇の御大典が京都御所で執り行われ、式典の終了後、各施設の拝観や御陵の参拝などが国民に認められることとなった。そのため、沿線に伏見桃山陵が存在し、開通の暁には大阪電気軌道奈良線へ乗り入れるだけでなく大和西大寺から橿原線へも直通し、京都と橿原神宮前を直結する計画であった奈良電気鉄道は、大きな旅客需要が期待されるこの絶好のチャンスに、何としてでも全線開業を間に合わせる必要に迫られた。 こうして、路線建設のための時間的猶予を失った奈良電気鉄道は宇治川渡河について経済的なプレートガーダー桁案を放棄し、河中に橋脚を設けずに済む長大な単独トラス桁により本橋梁を架設することを決断してようやく着工にこぎ着けた。
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計画の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 05:11 UTC 版)
ここでは、 1984年に川崎市が運輸政策審議会に提出した案:「1984年川崎市案」 1992年に川崎市が公表した案:「1992年川崎市案」 1998年に川崎市が運輸政策審議会に提出した案:「1998年川崎市案」 2001年の第1種鉄道事業許可時点での計画:「鉄道事業許可計画」 2003年に研究会が提出した見直し案:「2003年川崎市見直し案」 2005年の川崎市事業再評価対応方針で採択された案:「2005年川崎市見直し案」 として解説する。
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