現・鹿児島線のルーツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 07:52 UTC 版)
国有化までに敷設された現鹿児島本線とそれに付随する支線は、九州鉄道が独自に敷設したものである。陸軍衛戍地であった小倉地区の軍用路線や現北九州市内の路線は、軍政や国防計画の変遷にともなって頻繁に変更されている。九州鉄道の手による支線は篠栗線の一部と三角線全区間にとどまる。 門司 - 八代 (参考・現鹿児島本線の門司港-八代間の営業キロは232.3km) 現在の鹿児島本線の北半分、初代門司(→門司港)‐初代八代(→球磨川貨)間、および1911年(明治44年)にルート変更のため廃止された大蔵線に該当する。1889年(明治22年)に開業した博多‐千歳川仮停車場間を皮切りに、該当区間は1896年(明治29年)までに全通した。国有化までこの区間の延伸は進まず、肥薩線経由の全通は国有化後の1909年(明治42年)、川内経由の現行の鹿児島本線に付け替わったのは1927年(昭和2年)のことである。 小倉 - 大蔵 - 黒崎 当初は九州鉄道の本線の一部として開業した大蔵線区間に当たる。1891年(明治24年)の黒崎‐門司間全通時の区間である。1902年(明治35年)に戸畑線が開通してからは輸送量が激減し、本線から迂回線として大蔵線へ分離されたのは国有化後の1908年(明治41年)。廃止は1911年(明治44年)のことである。 (現鹿児島本線)富野信号場 - (現・日豊本線)紫川聯絡所 小倉裏線(現鹿児島本線)高浜(→富野)信号所 - (現日豊本線)紫川聯絡所間の軍用線に該当する。豊州本線が陸軍小倉連隊衛戍地を西に迂回しているため、衛戍地正門の位置する東側に直結する短絡線として1903年(明治36年)に敷設された。日露戦争時の出征輸送に使われたのみで、1916年(大正5年)に廃止された。 (旧・小倉裏線)足立軍用停車場 - (現・日豊本線)南篠崎聯絡所 上記の小倉裏線の本線と同時に敷設・廃止された短絡線。行橋方面からの上り列車が衛戍地正門に沿う足立駅に直通できるように設置された。足立・紫川南篠崎で三角線を形成していた。 (現・日豊本線)北篠崎聯絡所 - (旧・大蔵線)板櫃聯絡所 上記の小倉裏線の本線に追加する形で1904年(明治37年)に敷設された短絡線。黒崎方面からの上り列車が衛戍地正門に沿う足立駅に直通できるように設置された。小倉・北篠崎・板櫃で三角線を形成していた。小倉裏線系統では最も早く、大蔵線と同時に1911年(明治44年)廃止された。 小倉 - 戸畑 - 黒崎 北九州市内を通過する鹿児島本線の現行ルートに該当する。清朝やロシア帝国の上陸・艦砲射撃作戦による線路寸断を危惧した陸軍に反対されたため、大蔵線を先行開業して1902年(明治35年)にようやく並行新線として開業した。八幡・戸畑の集客力をもって大蔵線を圧倒する収益を上げ、国有化後の1908年(明治41年)に正式に人吉本線(→鹿児島本線)へ編入された。 吉塚 - 篠栗 (10.3km) 現在の篠栗線西半分の路線に該当する。1904年(明治37年)に吉塚‐篠栗間が全通し、翌年の博多乗り入れが完了すると、国有化後も変化なく推移した。筑豊本線桂川までの延伸が実現したのは、長大な篠栗トンネルの掘削が可能となった戦後のことで、1968年(昭和43年)のことである。 宇土 - 三角 (25.6km) 現在の三角線全区間に該当する。1899年(明治32年)に宇土‐三角間が全通して以来、路線の変更はない。
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