藍商佐直とは? わかりやすく解説

藍商佐直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:20 UTC 版)

吉田家住宅 (徳島県美馬市)」の記事における「藍商佐直」の解説

藍商「佐直」由来 吉田直兵衛寛政4年1792年)に創業した商。 屋号を「佐直」とした。商は藍染め原料販売する商人で、幕末から明治にかけて大い繁盛し吉野川流域一大産地として発展したが、中流域以西ではその集散地として脇町中心となった。佐直は、脇町1,2豪商であったという。南町通りうだつの町並み)に面する当家屋は、間口十一間、奥行き三十間の敷地有し商家としてはかなり広いものだった中には商談使った店の間や帳場があり、使用人部屋寝床なども残されている。裏手雁木石段はかつて吉野川近く流れていたときの名残で、降りてすぐの所が船着場になっていた。また「卯建」など、防火の工夫も見ることができる。吉田家住宅は、平成11年脇町指定有形文化財になった藍の商い 商が各地染め業者紺屋)に販売していた藍染め原料粒状のすくもか、それを臼でつき固めた藍玉からこれらを作るのは大変手間がかかる仕事で、その製造専門に行う業者は「師」と呼ばれた農家から集めた細かく砕いて乾燥したもの)を、寝床呼ばれる作業場をかけながら発酵攪拌繰り返し行い、約80日かけてすくもや藍玉仕上げた商は師を兼ねることが多く、藍商佐直でもこうした製造行っていた。現在、当家寝床は「情報センター」として活用されている。 防火の工夫 商家密集する市街地で、人々がもっと恐れたのが火災であった江戸時代入ってからたびたび大火見舞われ脇町では、家屋防火構造重視され卯建隣家接す2階部分妻壁から突き出した小さな壁で、延焼食い止める役割をした。虫籠窓は、表面練り土漆喰塗り込め堅牢に固めた2階部分の窓で、窓から室内へ火が燃え移るのを防いだ3度に亘る普請 当家屋は佐直が起業したとき、移築した民家である。当時このような木材リサイクル一般的だったその後たびたび普請改修)を行っており、江戸後期から慶応元年までの約90年間に、大規模な普請3度行った記録がある。最初天保6年1835年)の西棟普請身分が高い人が使う通称御成玄関」と呼ばれる西玄関と、中庭や主座敷などを改修した事業拡大に伴い武士の接客などの必要性出てきたためと思われる。次は安政7年1860年)の東棟普請東棟2階部分屋根上げされ、2階板の間新しく継ぎ足されていることが確認できる当時商は、土間やみせのまの2階倉庫または労働者寝床として使うことが多くこの頃扱う品物の量や労働力必要性大きくなったことを伺わせている。3回目慶応元年1865年)の南棟普請。主に主人家族の生活の場所だが、新しく増築したのか改築したのかは判断出来ない卯建があがる町並み 栄えた幕末から明治期まで、南町通りうだつの町並み)には商をはじめとする多く商家建ち並び人々賑わっていた。商家は、本瓦葺き大壁づくりの重厚なたたずまいで、隣家接す2階の壁に卯建設けている。この卯建作る費用が相当にかかったことから、店が繁盛しないことを「卯建あがらないということわざにもなっている。今もこの通りには当時商家数多く残り活気のあった頃の面影伝えている。昭和63年全国28か所目の重要伝統的建造物群保存地区選定されている。

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