自民党を離党、新進党へ
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1994年、細川内閣総辞職直前の4月15日に自民党を離党した。3日後の18日に新党みらいを結成し、党代表に就任した。細川内閣の後を継いだ羽田内閣には新党みらいも参画(閣外協力)したものの、内閣は日本社会党の連立離脱により少数与党に転落し、わずか2ヶ月で退陣する。その後の首班指名選挙では自民党を離党した海部俊樹に投票するも、自民・社会・さきがけ3党が擁立した村山富市社会党委員長に決選投票で敗れ、自社さ連立政権の村山内閣が誕生。新党みらいは海部を代表とした政党連合の自由改革連合を結成した後、12月10日の新進党結党に参画する。 新進党では海部党首の下で「明日の内閣(新進党版影の内閣)」外務大臣を務め、日本の国連安保理常任理事国加入を主張、核開発を続ける中国に対するODAに疑問を呈するなど積極的に活動した。また当時は、政府の提出した不戦決議に対して新進党の外交政策担当として「一元的には対応できない問題」として反対する姿勢を示し、村山首相が「朝鮮半島が南北に分断されたのは我々にも責任がある」と発言したとされることについても予算委員会で厳しく追及するといった(当時の社会党政権に対し、対立軸を鮮明にするという意図もあるが)保守的な姿勢を強く打ち出していた。 海部党首退任後の第2回党首選では小沢一郎の推薦人となり、小沢が当選後の明日の内閣では総務庁長官となった。しかし鹿野らが推し進めてきた小選挙区制での初の選挙である第41回衆議院議員総選挙で新進党は敗北。この結果を受け、小沢ら執行部の運営に不満を持った羽田孜や奥田敬和らが離党し太陽党を結成するなど党内情勢が不安定に。更に小沢や自民党の梶山静六・亀井静香らが提唱した保保連合構想によって小沢の求心力はさらに低下する。1997年、このような状況を受けて小沢の再選を阻止すべく、旧民社党・日本新党出身者からの支持を取り付け第3回党首選に出馬。「今こそ新進党は生まれ変わらなければならない」と訴え、政権交代可能な2大政党の必要性を唱えた(この時、落選中であった野田佳彦も鹿野の応援演説を行っている)。選挙は小沢と一騎討ちとなり、結果的には再選を許すも小沢230票・鹿野182票と善戦した。選挙後、鹿野は小沢の手を取って選挙後の党の団結をアピールするが、小沢は鹿野に投票した議員の排除をはかる「純化路線」に走り選挙9日後の12月27日に一方的に新進党解党を宣言する。 新進党解党後、党内の反小沢系の保守派議員を集め、1998年1月4日に国民の声を結成し代表に就任。さらに同月23日、太陽党、フロム・ファイブ(細川護煕代表)と合流し、民政党を結党。羽田を党首にかついで、鹿野は党幹事長に就任する。
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