自民党の政権転落と奪還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:34 UTC 版)
安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。しかし三塚派を実効支配していたのは森と小泉純一郎だった。それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長、建設大臣(村山改造内閣)、党総務会長と重要役職を次々と歴任した。 1993年7月より、清和会出身議員として4年ぶりの党幹事長を務めた際には、細川内閣が成立し、自民党が野党に転落した中での就任だった。入れ替わりとなる前任の梶山静六は辞任の際、残っていた党職員の忠誠心が高いことを失念して猜疑心から当り散らしたが、森は職員をいたわる機会が多かったと言う。総裁=総理大臣とは言えない状況下での後継者選びでは、自民党は河野洋平を総裁に選んだ。森が取った策は地方組織を丹念に回って地盤を固めてその意向を汲み取ることと、連立政権各派への切り崩し工作であった。これは次に述べる政治改革四法の採決で効果を挙げ始め、連立政権内に亀裂を走らせることになった。 細川内閣が成立を目指した、衆議院の小選挙区比例代表並立制導入を柱とする、政治改革関連4法案は、社会党の一部などの造反により否決された。首相の細川護熙は、河野とのトップ会談で妥協を図ろうとした。細川には小沢一郎が、河野には森が同席した。細川内閣案は比例区は全国1区、自民党案は47都道府県に分けていた。森は、妥協案として全国11ブロックにすることを提案し、小沢の同意を得た。なお、森はブロック制にしたのは共産党対策だと述べている。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、もし全国1区ならば共産党は実際に獲得した26議席に加え、少なくともあと5〜6、多くて7〜8議席とっていたと森は述べている。 この後、社会党と新党さきがけを排除して羽田内閣が成立した。森、亀井、白川勝彦らは社会党委員長の村山富市や、野坂浩賢など、社会党で連立政権に不満を持つ議員への接触を試みていた。自民党内にも、YKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)の了解を取るなどの根回しを行ったが、中曾根康弘らには最後まで知らせなかった。6月28日、森は社会党の久保亘書記長(彼は連立残留派だった)と会談し、自民党は村山首班で行くと持ち出した。久保は「今の話は絶対に外に漏らさないで下さい」と言い、森は「私は漏らしません」と答えたが、「私」ではない小里貞利にそれとなく言うように仕向け、自民党の村山首班構想が明らかになった。6月29日、小沢は自民党から海部を首班候補として引き抜き、首班指名は村山と海部の争いになったが、決選投票の結果村山261、海部214で村山が指名された。こうして村山内閣が成立し、社会党、新党さきがけとの3党連立として、自民党は与党復帰を果たした。
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