絶頂と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 07:57 UTC 版)
2度の挫折を味わった靖之であるが、更に技術を磨きをかけ、再び軌道に乗せることに成功する。明治10年代、三条白川一帯は七宝業者が20数軒林立し、靖之は彼らと切磋琢磨した。靖之は、下絵担当で工場長を務めた中原哲泉ら優秀な工人を育て、釉薬にも研究を重ね、明度や彩度がある艷やかで潤いある多彩な色彩を獲得した。金属線も均一で厚みのある真鍮線から、銀線や金線を使用することで線幅をより細くするのを可能にし、更に線に筆で描いたような肥痩を付けて図柄に躍動感を与え、金銀線それ自体を一つの色彩とした。更に技術的な進歩により、釉薬の量を減らしても望む効果が得られるようになったらしく、この頃から作品の重さが3割ほど軽くなっている。その精緻な細工、色彩感覚、構図の美しさなどを理由に、1889年のパリ万博、1900年のパリ万博等で数々の賞を受賞した。金賞も含めた国内外の博覧会での受賞は合計31回にも及ぶ。旧主・久邇宮朝彦親王に対しても、お呼びがあれば度々親王へ参上するなど宮家とは生涯に渡って深い絆を保ち続けた。靖之はしばしば宮中御用を務めているが、それも朝彦親王との関係による。 その高い技量は政府にも認められた。明治26年(1893年)5月29日には緑綬褒章を授与され、明治29年(1896年)6月30日には帝室技芸員に任命された。その裁可書によれば、靖之は支那製七宝器の海外輸出に適するを認め、七宝焼の試製により築窯から茶金石を用いた製法までを発明し、その技量の妙絶さにより内外博覧会で数十の受賞をしたことが褒章の理由として記載されている。七宝の分野で帝室技芸員に任命されたのは靖之と濤川惣助の2人だけである。養女・徳子の回想によるとこの頃が靖之の絶頂期で、「博覧会では実に勿体無いほど儲かった」といい、職人も40から50人抱えていたという。外国人が直接家に来て七宝を買い付けることも多くなったため、背の高い外国人を迎えるに相応しい家にしようと、明治23年(1890年)に蔵を建てて店として使い、明治26年(1893年)には母屋が完成した(現在の並河靖之七宝記念館)。明治39年(1906年)賞勲局の特命を受けて勲章製造も始めることになり、東京下谷根岸町八幡に工場が設けられた。 しかし、明治末から大正期に入ると、人件費の高騰や物価高、外国人観光客の減少から七宝は輸出量が激減、販売高の9割が外国需要だった七宝は大打撃を受ける。そのため靖之は、大正12年(1923年)7月、大きな損失を抱える前に工房を閉鎖する決断を下す。廃業後は隠居し、山科駅の北に琵琶湖疏水の水を引き入れた100坪の池を作り、そこに鯉を2, 300尾放流し、毎日眺めるのが日課だったという。その4年後、動脈硬化症により83歳の生涯を閉じた。死後、宮内庁から特旨をもって従七位に叙せられ、各宮家から多数の祭粢が寄せられたという。一方、勲章工場の方は徳子の夫が継承し、会社組織として並河の死から2年後の昭和4年まで続けられている。
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