紙のプロレス時代:1993-2004
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「吉田豪」の記事における「紙のプロレス時代:1993-2004」の解説
入社から2年後、『紙のプロレス』(以下、紙プロ)と出会う。『紙プロ』がイベントを行った時に、ターザン山本と高田文夫のトークイベントの動員が悪かったため、サクラで来るよう言われ(しかもイベント途中でターザンが帰ってしまった)、イベント終了後、編集長に挨拶に行ったところ、そのまま『紙プロ』編集部まで連れて行かれ、朝まで仕事をさせられる。その報酬がよかったため、以後アルバイトで手伝うようになり、「プロレス用語大辞林」「日佐夫クン人生劇場 書評の星座」などのコーナーを担当。 後に『紙プロ』へ完全移籍。この時期に、従来の漫画評論で無視されていた梶原一騎のダークな作品を論じた『マンガ地獄変』(水声社)や、サブカル的視点から作られたプロレスムック『悶絶!プロレス秘宝館』(バーン・コーポレーション/シンコーミュージック)にメイン・ライターとして参加。この二冊は好評で、特に『マンガ地獄変』はVOL.4の原稿の執筆も終えていたが、どちらも編集者がモーニング娘。にハマり(前者は「爆音娘。」主催だったビバ彦、後者は「吉田豪の人間コク宝」(2020年現在『実話BUNKA超タブー』(コアマガジン)連載)のカメラマンを務めるごっしー)仕事を放棄したため打ち止めとなった。 1996年、発行会社のダブルクロスが分裂し、『紙のプロレス RADICAL』になって以降は、紙プロの編集部に机を置きながらフリーライターとして活動。『BUBKA』(コアマガジン→白夜書房)『ダカーポ』(マガジンハウス)など、30本前後の連載を抱える人気ライターとなる。 『紙のプロレスRADICAL』は、SWSの再評価など他の専門誌が扱わないレスラー、団体にスポットを当て、当時の業界の権威であった新日本プロレスや週刊プロレスにアンチを唱える姿勢で、タブーの少ない雑誌としてカルト的な人気を博した。 編集長の山口日昇がPRIDEの運営に関わるようになって以降、利害関係ができてしまい、「紙プロはDSEの機関紙と揶揄される」ほどPRIDE一辺倒の雑誌になった。吉田はこれに対して、誌面で行なわれる山口との対談などで批判的なスタンスを取りバランスを取る役割を担っていた。 2004年、紙プロであるプロレスラーの妻の本を書評した際、山口に呼び出されてそのプロレスラーから叱責を受けることとなる。吉田は、これを「パートナー変更宣言だった」「今まで普通にできていたことがPRIDEとの利害関係が生じて、できなくなってしまったから起こった事件」と述べている。他の編集部員は吉田の残留を望んだが新しい事務所に移転時、山口の妻から吉田の机を置かないことを告げられ、紙プロを去る。 山口とは2012年2月に紙プロの後継紙『KAMINOGE』にて対談を行った。山口はハッスルの運営に入り込んだ結果、億単位の借金を負ってしまい「今となっては豪ちゃんの言う通りかもな、ホントに…」と語っている。
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