米英仏などによる軍事介入・戦局の長期化
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「2011年リビア内戦」の記事における「米英仏などによる軍事介入・戦局の長期化」の解説
しかし15日夜、訪仏したクリントン国務長官の報告を受け協議していたオバマ大統領はカダフィ大佐の脅しを聞いて参戦を決断、17日に国連安保理に、保護する責任として飛行禁止区域の設定と空爆を承認する決議がかけられた。カダフィ大佐を支持していたロシア・中国ももはやカダフィ大佐をかばいきれなくなり、拒否権を行使しなかった。理事会は同決議を賛成10、棄権5(中国・ロシア・インド・ドイツ・ブラジル)で採択した。フランスは空爆への準備を開始した。 カダフィ大佐は国際的な軍事介入を非難しつつも、一旦は18日に即時停戦を受け入れた。しかし直後にベンガジやミスラタに対する攻撃を継続した。19日、フランスが軍事介入を宣言し、米英仏を中心とした多国籍軍がカダフィ政府軍への空爆を開始。アメリカの「オデッセイの夜明け作戦」によりトマホークが100発以上発射された。カダフィ大佐は直後に国営放送で演説し、国民に対し徹底抗戦を呼びかけた。リビアはかつてパンアメリカン航空103便爆破事件やリビア爆撃などと西側諸国と長年対立した後で近年は関係改善していたのだが、今回の攻撃でイギリス・イタリア及びル・フィガロ紙でモサッドとの関係が報道されたサルコジ大統領のフランスがNATOを主導している。 しかし、NATO加盟諸国は欧州金融危機への対応を抱えるなど、財政的にリビア攻撃を継続することは容易ではなく、6月上旬にはNATO国防相会合にてアメリカが攻撃に参加しないドイツやポーランドなど5カ国を非難するなど軋轢も起こる。一時期はNATO加盟国のうち17カ国が攻撃に参加したが、8月1日にノルウェーがリビア攻撃から離脱し、参加国は7カ国まで減った。また反カダフィ勢力や民間人に対して誤って攻撃してしまい犠牲者が出るなど、攻撃そのものに対して反政府勢力からも批判も高まった。 リビアにおける戦闘は膠着状態が続き、ロシアのエフゲニー・プリマコフ元首相はNATOが袋小路状態に陥ったと指摘し、国際連合による介入も実を結ばなかった。 こうした軍事的対応のほか、3月29日にはイギリスのロンドンにてリビア情勢を議題とする国際会議が開催され、以降この枠組はリビア連絡調整グループとして、リビアに対し国際的に協調して対処すること、またリビアと国際社会を結ぶ窓口を確保することなどを目的した包括的組織となった。7月1日にはアフリカ連合がマラボで首脳会談を開き、双方による即時停戦や対話による民主化方針の策定を求めた調停案を提示した。評議会内部では長引く戦局の中で、交渉に応じようという意見が上がり、アブドルジャリルもその考えに賛同していた。 28日、交渉賛成派の1人であったアブドルファッターフ・ユーニス・オベイディー国民解放軍総司令官がベンガジへの帰途中暗殺される事件が発生した。事件については内部の路線闘争とカダフィ側の襲撃との見方があるが、前者の可能性が高い。アメリカ国務省は事件の及ぼす影響を危惧し、8月4日に評議会代表と内乱終結後の手続きについて会合を開いた際に事件の解明を求めた。8月8日、マフムード・ジブリール執行委員会委員長(暫定首相に相当)は事件の責任を取って内閣を総辞職させた。 この一連の出来事を通して、評議会は一致して武力打倒へと突き進んでいった。また7月にかけて、大国の国家承認が相次いだ。 また、リビアに残る外交官たちを守るため、SASやGSG-9といった欧米の特殊部隊が派遣された。彼らのような先進国の特殊部隊や民間軍事会社の要員が、反カダフィ側への軍事指導や、戦闘行為の支援を行ったのではないかという推測も行われていた。
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