第9、第10の哨戒 1944年5月 - 10月・ブッシュ救助
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「フィンバック (潜水艦)」の記事における「第9、第10の哨戒 1944年5月 - 10月・ブッシュ救助」の解説
5月30日、フィンバックは9回目の哨戒でフィリピン海に向かった。この哨戒でも、マリアナ諸島攻略の援護をする第58任務部隊搭乗員の救助を主な任務とした。6月19日のマリアナ沖海戦前後には、アルバコア (USS Albacore, SS-218) やカヴァラ (USS Cavalla, SS-244) より北の位置で哨戒しており、6月19日夜には北緯14度20分 東経137度04分 / 北緯14.333度 東経137.067度 / 14.333; 137.067の地点で、レーダーで13,000メートルの位置に機動部隊のようなものを探知する。フィンバックは戦闘配置を令して追跡を開始し、集団は二つのグループに分かれていると判断される。さらに、グループがサーチライトを上空に向けて2つ照らしている様子もうかがえた。しかし、4隻の駆逐艦がフィンバックのいる方向に向かっているのが分かり、潜航を余儀なくされた。浮上後、フィンバックは艦隊発見の報告を行うが、報告したのは艦隊を探知してから約6時間が経過しており、その報告が第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将のもとに届くまでにさらに3時間もかかっていたため、結果的にこの報告は意味を成さなかった。7月21日、フィンバックは50日間の行動を終えてマジュロに帰投。艦長がロバート・R・ウィリアムス・ジュニア少佐(アナポリス1934年組)に代わった。 「サン・ジャシント (空母)#1944年9月2日」も参照 8月16日、フィンバックは10回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。8月中から9月1日までは硫黄島攻撃の支援にあたり、9月1日には空母フランクリン (USS Franklin, CV-13) のTBF アヴェンジャーのクルーであるトーマス・ケーン少尉他2名を救助した。その頃、当時は海軍中尉のジョージ・H・W・ブッシュは空母サン・ジャシント (USS San Jacinto, CVL-30) の搭乗員の一員として乗艦し、サン・ジャシントは第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の一艦として、艦載機で小笠原諸島を爆撃すべく進撃していた。第38任務部隊は8月末に小笠原に接近。ブッシュのいたVT-51(第51雷撃隊)は父島にある日本海軍の通信施設などを繰り返し爆撃し、さらには水上部隊も父島に艦砲射撃を加えていた。9月1日にも送信所への爆撃が実施されたが不成功だったので、翌日も繰り返すこととなった。9月2日、2日連続で同じ目標を攻撃するゆえ対空砲火に関する注意を受けた攻撃隊は父島へ向けて発進。ブッシュら指揮官機らに続いて通信施設を爆撃しつつあった。その時、対空砲火がブッシュ機「バーバラ」のエンジンに命中し、火を噴き始めた。しかし、「バーバラ」は被弾にも屈せず投弾して爆弾は通信施設に命中。「バーバラ」は東方に避退したが火勢が強くなり、ブッシュは他のクルーと共に落下傘降下を行った。ブッシュは「バーバラ」に頭をぶつけながらも降下に成功して父島の北東海域に着水したが、同時に降下したクルーの一人の落下傘はついに開かなかった。 父島沖に待機していたフィンバックが、指揮官機からの通報を受け取ったのは9時33分のことだった。通報で「バーバラ」の推定墜落位置の情報を得たフィンバックは直ちに現場に急行。11時56分にブッシュを救助した。同時に同僚であるデラニー二等兵曹とホワイト中尉の捜索も行ったが、ついに発見できなかった。フィンバックはブッシュを救助した後も引き続き、付近で搭乗員の捜索を行い、16時20分に空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 所属のジェームズ・ベックマン少尉を救助した。その後、フィンバックは「お客」のブッシュ以下5名を乗せたまま任務を続行。9月10日から11日にかけての深夜は北緯27度40分 東経140度37分 / 北緯27.667度 東経140.617度 / 27.667; 140.617の父島沖で輸送船団を発見し、海防艦八十島の追跡をかわして二度にわたる水上攻撃を行い、2隻の陸軍船、八祥丸(南洋海運、530トン)と第二博運丸(西海汽船、860トン)を撃沈した。10月4日、フィンバックは50日間の行動を終えて真珠湾に帰投。ブッシュらはそれぞれの母艦に戻っていった。 デラニー二等兵曹とホワイト中尉は行方不明となり死亡認定され、ブッシュは後に空軍殊勲十字章を受章した。ブッシュは1987年に出版した自伝でこの撃墜を振り返った際、「終戦後に父島の人肉事件を雑誌で知って「最悪の時を思い起こさせた」」と書いている。ブッシュが日本軍に撃墜されたことは1988年の大統領選終盤期や在任当時、日本のテレビ番組ニュースステーションでも報道されたが軽い扱いであり、フィンバックの功績は報道されなかった。
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