第二次世界大戦以降現代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 22:38 UTC 版)
「ナッシュビルの歴史」の記事における「第二次世界大戦以降現代」の解説
第二次世界大戦後、ロイ・エイカフ(1903年~1992年)などの音楽興行主がナッシュビルをカントリー・ミュージックの中心地として形成していった。1938年、エイカフはグランド・オール・オープリーに参加。1940年代、彼のミュージシャンとしての人気は徐々に下降していったが、40年近くオープリーの重鎮及び興行主として活躍した。1942年、彼は共同でナッシュビル基盤の最初の大きな出版会社エイカフ=ローズ・ミュージックを創立した。ブロードウェイの二番街での音楽産業、および音楽好きな観光客の拠点として発展していった。 ナッシュビルは公民権運動の中心地となった。1957年、公立学校はダン・メイの提唱する『ステア・ステップ』プラン(階段を1段ずつ上るように)により人種差別をなくすようにしていった。しかし人々はこれに反対し、ハッティ・コットン小学校の爆破事件に発展した。死者は出ず、その後暴力無しで人種差別をなくす計画は徐々に浸透していった。1960年2月13日、何百人もの大学生がナッシュビル学生運動で町中の食堂で人種差別撤廃の抗議の座り込みを行なった。最初は暴力を奮われたり逮捕されたりしたが、地元企業の圧力によりこの抗議は最終的に成功し、人種差別は衰退していった。ナッシュビルでの座り込みの参加者はジェイムス・ベヴェル、ダイアン・ナッシュ、バーナード・ラファイエット、ジョン・ルイスなどがおり、公民権運動に最も影響のある団体の1つである学生非暴力統合委員会を組織するに至った。1961年のナッシュビル・オープン・シアター・ムーヴメントでの活動が最初に記録されており、ジェイムス・ベヴェルが市内の劇場の人種差別撤廃の戦略を練った。 1963年よりナッシュビルは郡と市が合併し大都市圏行政府となっている。1958年に同様の計画が浮上した際は失敗に終わったが、1962年6月28日に行なわれた住民投票ではデイヴィッドソン郡住民の合併への投票者数は上昇した。 1998年4月16日午後3時半頃、1998年ナッシュビル突発性竜巻が発生し、高層ビルの何百もの窓を吹き飛ばし、道路上に落ちた窓を雨が打ち砕くなど深刻な被害をもたらし、約4日間ビジネス街は閉鎖せざるを得なかった。300軒以上の家屋が被害を受け、建設中のアデルフィア・コロシアム(現LPフィールド)のクレーン3基が倒壊した。1名が死亡。アメリカ史上、都市部で起こった竜巻で最も被害額の大きなものの1つとなった。 2000年、ナッシュビル生まれのビル・フリストはアメリカ合衆国上院の院内総務で政界進出。フリストはヴァンダービルト大学病院の移植医であった。 2010年4月30日から5月7日、ナッシュビルとその近郊にテネシー洪水が発生した。 2020年12月25日午前6時半頃、AT&Tのビル前で駐車中のキャンピングカーが爆発し、3人が負傷した。その影響でテネシー州内の大部分で警察の緊急対応システムが機能しなくなり、ナッシュビル国際空港からの出発便は一時見合わせとなった。
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