私立図書館の開館
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緑叢会は、図書館再建に向けて動き出した。岡田は緑叢会から図書館の知識を得るための視察を委ねられ、北海道外を巡る旅行に出た。この旅行で岡田は1か月以上にわたって、東北地方や東京府(後の東京都)を視察した。特に、耐火構造の帝国図書館(後の国立国会図書館)に圧倒された。早稲田大学図書館の館員らは、北海道から東京を訪れた岡田の熱心さに感心し、彼を日本図書館協会に推薦し、岡田は道内会員1号となった。 帰郷後の岡田は早速、図書館創立委員会を結成した。この報せを知った人々からは、入会の問合せ、図書寄贈の希望など、毎日のように反響があった。大火で焼失した岡田の店舗は1908年(明治41年)に再建されていたが、図書館創立委員会のあまりの多忙さに岡田は家業を妹に譲り、自身は地元の名士たちの会員への勧誘、役所への連絡などに奔走した。図書館の建物として、函館区公共の建物である協同館を借り受け、函館毎日新聞社の社内にあった図書館創立事務所がそちらへ移設されると、岡田は協同館の事務所に寝泊まりして仕事に明け暮れた。この建物は30年近く無人であったために損傷が激しく、岡田は大工たちを指揮しつつ、自ら金槌を振るい、手に血豆を作りながら修理を行なった。 岡田の熱心さに、豪商の小熊幸一郎、銀行家の初代相馬哲平といった函館の有力者たちも岡田に賛同した。また図書の寄贈者の1人に、歌人の宮崎郁雨がおり、後に岡田と長年にわたる親友となった。 1909年(明治42年)、私立函館図書館が函館公園内に開館した。初日は51人、5日目には123人、6日目には178人が来館した。開館後の最初の日曜日には、「あらゆる人に利用を」との岡田の理念のもとに児童室も開設され、絵本などで子供たちを喜ばせた。この日は、もの珍しさもあって、朝8時から子供たちが押し寄せていた。午前10時には子供たちの数が100人を超えたため、一時的に閲覧室を閉鎖するほどの盛況ぶりであり、来館者397人のうち半数以上の218人が子供であった。後の平成期の函館の年配者には、この児童室が図書館利用の嚆矢だったという人物も多い。その後も利用者は増加の一途を辿り、初年度の来館者は2万8千人を超えた。 図書館の運営資金は図書閲覧料と維持会員の納付金によるもので、納付金は月々50銭であった。貸本屋の単行本の借り賃が6銭、米1升が17銭の時代であり、維持会員になる者は文化的なことに興味を持つ、ごく限られた人員だったと見られている。 図書館の経営者は函館毎日新聞関係者や市内各界の有志たちであり、岡田は図書館主事兼事務主管として実務に専念した。事務主管は1年間のみ兼任の約束であったが、後任者不在のために1年後も事務主管を続けた。妹に任せた家業を顧みなかった上、図書館経営の資金に私財を投じていたため、家業は次第に経営が困難となり、1912年(明治45年)に廃業を余儀なくされた。 1910年(明治43年)、日本図書館協会の一員として、兼ねてから希望していた全国図書館大会に初めて参加。その後、1949年(昭和24年)の第33回の同大会まで毎年のように参加し、その回数は15回におよんだ。またこの頃、当時の函館区医、後に函館市長となる齋藤與一郎との出逢いがあった。
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