私立串本図書館から町立へ(1923-1945)
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図書館設置の動きは1922年(大正11年)秋に皇太子(昭和天皇)が12月に和歌山県を行啓することが決まったことを受けて串本小学校長らが記念事業として簡易図書館を学校内に設置しようと計画したことに始まる。設置資金を得るため、学校職員と児童は協力して造花と小旗を手作りし、本之宮神社の例祭で「花の日」・「旗の日」と銘打って販売した。その売り上げ205円5銭と町内の各種団体からの寄付金944円8銭を原資に、暁光倶楽部からの寄贈書など244冊の寄付本をもって1923年(大正12年)1月1日に串本図書館として開館した。図書館の運営は同年6月15日から串本小学校高等科の1914年(大正3年)卒業生が結成していた「かなえ会」に委託し、施設も前町長の田島喜八邸控室に移転した。かなえ会は単なる同窓会ではなく、当時の串本町を代表する文化団体として弁論大会を開くなどしていた。 1924年(大正13年)1月26日の串本町会では、「皇太子殿下ご成婚記念事業」として町民108人が建議した町立図書館設置案が審議されていた。建議書では串本町では文化施設が乏しいことから町立図書館を置くことが適当かつ緊急であるとし、串本図書館の蔵書や備品を町立図書館へすべて引き渡すことや運営予算・職員配置まで提案されていた。町会は「建議者全員と町の名誉職、有志を弁論後援会(かなえ会の弁論大会の後援組織)の会員として年1円以上を会費として徴収、これを図書館運営費に充てる」という条件を付して町立図書館設置を決した。大正デモクラシーの風潮の中で町民の弁論熱が高まっていたことから、この勢いを図書館設置へと結合させたのであった。 町立図書館設置を決めた串本町当局は役場庁舎の一角を仮館とし、将来的に独立館を建てるという方針で1924年(大正13年)10月30日に和歌山県から認可を得た。しかし職員の任命が任命権限を持つ県側の都合で1925年(大正14年)2月22日までかかったため、串本町立図書館として開館したのは同年3月7日と遅れた。開館後も諸手続きなどに手間取ったようで、実際に串本町民が利用できるようになったのは1926年(大正15年)になってからであった。同年の蔵書数は967冊で閲覧者数は1,136人(うち女性は195人)、貸出冊数は524冊であった。 1928年(昭和3年)は4月から9月まで分類整理のため休館したため利用実績は低く、昭和恐慌の影響か1930年(昭和5年)から1933年(昭和8年)も低迷していたが、1934年(昭和9年)以降利用実績が伸びた。同年の串本町事務報告書では文学書偏重だったのが産業・交通・法制・社会・地理・歴史・婦人・修養などが増えていった旨が記録されている。1936年(昭和11年)12月2日には「読書及び図書に関する座談会」を開催したが参加者は10人にすぎなかった。にもかかわらず、報告書には「有益だった」と書かれており、『串本町史』は戦争が迫りくる中で読書の自由も奪われる世の中に対する皮肉を込めたのではないかと解釈している。そして1938年(昭和13年)の蔵書数3,280冊、閲覧人数1,969人(うち女性は522人)、貸出冊数2,162冊という統計を残して報告書から図書館に関する記述がなくなった。
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