生産性向上運動中止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 20:26 UTC 版)
「スト権スト」の記事における「生産性向上運動中止後の状況」の解説
1972年(昭和47年)になってようやく同審議会内で本格的な審議が開始された。しかし、審議会を構成する委員(使用者・労働者・公益から選任)間での対立が激しく、1973年(昭和48年)9月の答申では『ストライキ権』について、 禁止継続 国民生活に影響の少ない部分に限り認可 条件付きで全面認可 の3論について併記とし、この問題の解決を「三公社五現業等のあるべき性格について、立法上および行政上の抜本的検討」を求める形で、事実上政府に委ねることになった。 一方、国鉄の収支が赤字に転落した1964年(昭和39年)から、国鉄当局は合理化の方針を打ち出し、これに反対する組合との間で紛争が激化した。戦術はエスカレートし、当局がそれに対して職員の処分を実施してさらなる「処分撤回闘争」が起きた。こうした闘争と処分のループは管理者側を疲弊させるとともに、組合側にも処分された組合員への補償で財政的負担を強いるものであり、両者がスト権付与を求める動機ともなった。また、国鉄当局がスト権付与と共に、当事者として求められる経営の自主権を確保する狙いもあったのではないかという指摘も存在する。 1971年(昭和46年)に生産性向上運動が取りやめとなってからは、国労・動労は攻勢を強め、「スト権奪還スト」を矢継ぎ早に打つようになっていった。このため首都圏の国電では運休や遅れが相次ぎ、利用者には不満が鬱積していった。 これに対して、国鉄は人事刷新を行い、1973年(昭和48年)秋に技術畑出身の藤井松太郎が総裁に就任した際に、職員局長経験を持つ井上邦之を副総裁、瀧山養を技師長とした。労政問題を担当する職員局の人事も刷新され、職員局長には加賀谷徳治(労務担当重役兼任)が就き、労使安定路線を推進していた。その原動力になっていたのは、労働畑一本の経歴で職員局労働課長の川野政史と職員課長の大森義弘であり、組合側へのパイプを持ち、難問解決の実績から信頼を勝ち得ているとされていた。 1974年(昭和49年)の春闘では折からのインフレに対応する賃上げと公共企業体のスト権問題から、私鉄総連も加わった大規模なストが敢行された。労使間交渉の結果、総評を主体とした「春闘共闘委員会」と政府の間で、スト権問題を検討する関係閣僚懇談会を設置して結論を「可及的かつ速やかに出す」という「五項目合意」が交わされた。この際、政府側から「1975年の秋ごろまでに結論を出す」という口頭での表明があった、と労組側は発表した。これにより、1975年(昭和50年)秋がスト権問題の山場として認識されるようになった。1974年(昭和49年)5月、合意に基づき、内閣官房長官を長とする「公共企業体等関係閣僚協議会」が設置され、内閣官房副長官の川島廣守が事務局長となった。協議会は諮問機関として学識経験者等で構成される「専門委員懇談会」を設置し、懇談会は8月から本格的な審議を開始した。
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