王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアンとは? わかりやすく解説

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王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 19:39 UTC 版)

エドヴァルド・ムンク」の記事における「王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン」の解説

ムンクは父を説得し同年1880年12月16日ノルウェー王絵画学校(現・オスロ国立芸術大学)の夜間コース入学した1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃にモデル・クラス編入した。ムンクはこの学校で健康を取り戻し教官彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーン指導受けたまた、同年1882年初め頃、友人6名とともにカール・ヨハン通り国会広場面して建つ「プルトステン」ビル屋根裏アトリエ借り、そこで画家クリスチャン・クローグ指導受けたムンクは後に「私を彼の弟子一人とみなすのはどうしても無理がある。……とはいえ私たちはみなクローグを非常に好ましく思い、また立派な画家考えていた。」と書いている。 同年1882年)夏、ヘードマルク県滞在し同年秋にクリスチャニア西郊スケッチして回った1883年秋、親類画家フリッツ・タウロウ主催するモードゥム(英語版野外アカデミー参加して制作討論行った。これがきっかけで、クリスチャニア・ボヘミアンという当時前衛作家・芸術家グループ交際するうになるこの年1883年)、彼は産業及び芸術展覧会油絵習作若い女頭部』、第2回秋季展(芸術家展)に『ストーブ火をつける少女』を出品した。さらに、1884年秋季展(官立芸術展と改称)に『朝(ベッドの端に腰掛け少女)』を出品したが、ノルウェー国内では酷評された。 『朝』1884年油彩キャンバス、96.5 × 103.5 cmベルゲン美術館一方フリッツ・タウロウムンク才能認めており、ムンクパリサロン見学する機会提供したい同年1884年3月、父クリスティアン支援申し出ている。ムンク病気のためパリ行きはいったん延期されたものの、1885年5月友人画家エイヨルフ・ソート(英語版とともにパリ向かった。そこでサロンルーヴル美術館通い詰めエドゥアール・マネ多く作品接して色彩表現や、画面の中の一点強調する技法学んだ他方サロン尊敬集めているアカデミズム絵画ブグローについては「ブルジョア連中関心引いていたにすぎない」と切り捨てている。この年秋季展には『画家カール・イェンセン=イェル像』を出品したがこれも酷評された。 同年1885年4月ムンク一家スカウ広場面した建物移ったムンクはここで『春』『思春期』第1作)『病める子(英語版)』『その翌朝』を描いた亡くなった母や姉を重ね合わせた『病める子』は1年近くかけて描き上げたもので、1886年秋季展に出展したが、これも保守系日刊紙モルゲンブラーデ』から「当然必要な下塗りさえしていない」「近づけば近づくほど、何が何やら分からなくなりしまいには雑多な色の斑点だけになってしまう」と書かれるなど激しく攻撃された。ムンクは後に『病める子』について、新しい道切り開いた作品だと位置付けつつ「ノルウェーではこれほどスキャンダル巻き起こした絵はない」と自ら記し展覧会初日会場で、哄笑非難の声が聞こえてきたことを振り返っている。唯一クリスチャン・クローグだけは『病める子』を弁護してくれて、ムンクはこの絵をクローグ贈ったこの頃クリスチャニア・ボヘミアンリーダー格であるアナーキスト作家ハンス・イェーゲル知り合った伝統的なキリスト教道徳公然と異を唱え自由恋愛主義訴えるイェーゲルに、当時クリスチャニア若者たち熱狂したのと同様、ムンクもその信奉者となったムンクにとってボヘミアン時代は、霊感活気与えてくれる時代であったが、同時に独断主義的なボヘミアンメンバーに対して反吐出そう馬鹿者」と嫌悪感表してもいる。また、ムンク1885年から数年間、人妻ミリー・タウロウとの禁じられた恋愛に陥り、苦し思いをした。 『病める子』1885-86年。油彩キャンバス120 × 118.5 cmオスロ国立美術館1888年秋、ムンククリスチャニア南西海辺の村オースゴールストラン訪れ郵便船到着』などの写生的な油絵描いた1889年初頭重病患い回復途中に『春』を描いた。これはこの時期最高傑作とされる同年5月9日からカール・ヨハン通り学生協会の小ホールに『ハンス・イェーゲル像』『春』などの自作110点を並べ個展開催した当時ノルウェーでは、個展というものが開催されること自体初めての試みであった。 『春』1889年油彩キャンバス、169.5 × 264.2 cmオスロ国立美術館。 『浜辺インゲル英語版)(夏の夜)』1889年油彩キャンバス126 × 161 cmベルゲン美術館

※この「王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン」の解説は、「エドヴァルド・ムンク」の解説の一部です。
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