満洲東部
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「ソビエト連邦による満洲侵攻」の記事における「満洲東部」の解説
「牡丹江の戦い」も参照 東部では第1方面軍が守備に当たった。ソ連国境の間近に接した満洲東部の虎頭要塞には1,200名の守備隊がいたが、ソ連軍約4万が大挙して押し寄せたため戦闘は8月26日まで続き、生存者わずか100名程に留まった。最初の攻撃では、要塞本体の損害は軽微であったが、主要道路、鉄道、通信網は早々に遮断され、国境付近の監視哨からの連絡は途絶えていった。この時点で攻撃が単なる越境事件か全面侵攻かを判別できなかった要塞司令官は、新京の関東軍総司令部に「虎頭方面砲撃を受けつつあり…」との緊急連絡を入れて指示を仰ぎ、これが最初のソ連侵攻の知らせとなった。総司令部には間髪を入れずに、東寧と綏芬河への攻撃、及び牡丹江市の空襲の連絡も届き、綏芬河と満洲里の居留民は集団自決したとの報告も入った。 要塞の損害が拡大する中、司令官は残存兵力を集めて籠城による持久戦を指示、午後1時には本格的な反撃を開始した。この日のうちに虎頭要塞は、その周辺部に残る唯一の要塞となり孤立したが、ソ連軍の空襲を受けつつもソ連軍将校を捕虜にするなど戦果を挙げた。しかし、虎頭要塞は降伏勧告を拒否したためソ連軍から徹底的な攻撃が加えられ、8月26日に守備隊は壊滅した。 ソ連軍8個師団と6個戦車旅団が攻撃した三岔口要塞では、3つの陣地に日本兵1,700名が守備に当たり、その内2つの陣地が侵攻初日に陥落したが、生存者660名が22日まで抵抗した。最後に残った守備隊1,000名の勝鬨陣地はそれまでの損害が150名程と堅牢な陣地であり、空襲と30cm榴弾砲40門による砲撃にも耐え、関東軍参謀が軍使のソ連軍将校を連れて停戦を命じるまで抵抗が続けられた。勝鬨以南から琿春までの国境は攻撃が少なく、後退指示により現地守備隊も損害は小さかった。 歩兵第271連隊の300名が守備した綏芬河の天長山陣地には、在郷軍人と一般居留民合わせて350名程が逃れ、11日まで陣地を防衛したが、15日にはソ連軍の突破されて居留民と共に玉砕した。 日本軍3個師団が守備していた牡丹江の戦いでは、幹部候補生を主とする1,680名が掖河の東20kmでの地点で戦い、爆弾を抱えて戦車に突撃する肉弾戦でソ連軍戦車40両を撃破したが、その生存者は100名程であった。観月台を突破された後、歩兵第370連隊がソ連軍の進撃を防いだが、15日夜までにはこれも突破された。小豆山の重砲兵隊も15日に兵員の多くが玉砕し、師団長含めた生存者全員で斬り込みを準備していたところに転進命令を受け、23日に寧安で武装解除された。奇襲を受けた牡丹江守備隊の損害は大きかったが、迅速な部隊配置が功を奏して牡丹江居留民の避難と第5軍の進路変更に成功した。 朝鮮方面では、8月12日に雄基、羅津にソ連海軍歩兵約2,000名が上陸して羅津要塞守備隊との間で戦闘になったが、ソ連軍は第393狙撃師団の増援を受けたことで守備隊は西に後退を余儀なくされた。羅南師管区の清津には13日に威力偵察部隊、14日に海軍歩兵1個大隊、15日に海軍歩兵4個大隊が上陸し、日本軍は反撃しつつも後退して17日に停戦した。図們江守備隊は歩兵第248連隊が交戦したのみで、大きな戦闘は起きなかったが、工兵第79連隊や機動第1旅団などでは自決者が出た。 松花江沿岸では川を遡って進軍するアムール小艦隊および第15軍との戦闘が起きた。9日に渡河したソ連軍は橋頭堡を築き、撫遠の守備隊と居留民をほぼ全滅させた。11日の富錦守備隊は激戦の末に上陸軍を撃退した。歩兵第366連隊も邦人避難の時間稼ぎを果たした一方、これら前線部隊の多くは第134師団主力と合流できないまま武装解除に応じた。 東部方面では、日本側の戦車と航空兵力不足に加えて牡丹江街道の対戦車壕構築が遅れていたためソ連軍戦車部隊は円滑に進攻できた一方、日本軍は鉄道を居留民の退避と武器弾薬輸送に使ったため列車砲や装甲列車を活用出来ないまま占領された。
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