汪兆銘工作
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「汪兆銘工作」も参照 1937年(民国26年、昭和12年)7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争(支那事変)が始まった。徹底抗戦を貫く蔣介石に対し、汪兆銘は「抗戦」による民衆の被害と中国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった。 日本陸軍の今井武夫や影佐禎昭が進めた汪兆銘工作は、しかし、汪兆銘の地盤とみられていた東南諸軍から誰ひとりとして呼応する者がなかった。そのため、結局日本軍占領地下での政権(汪兆銘政権)樹立という方針に転換した。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国・日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものだった。汪兆銘は影佐禎昭に対し、新政府を設置しても自分は政権に執着しないと述べており、蔣介石に百歩譲っても基本的に中国を二つに割りたくないこと、戦火によって民衆の犠牲をできるだけ避けたいことを訴えている。一方、汪らは自身の政権が日本の傀儡となるのではないかという強い危惧を抱いたが、同時に日本にとっては、期待する全面和平への障害となるか、促進になるのか疑問でもあった。また汪兆銘工作は、対日和平派であった高宗武と陶希聖も和平条件が苛酷であることを批判し、そこから離脱してしまった。
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汪兆銘工作
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1933年には東京に戻り、アジア局第一課へ。1934年には二課長になった。その後1935年から1937年にかけて東京勤務と中国勤務を繰り返し、1937年7月の盧溝橋事件は上海で迎えることになる。1938年1月の近衛声明「蔣介石を対手とせず」には、回想録に「唖然とせざるを得なかった」と強い批判を書き残している。 1938年7月、外務書記官、調査部第五課長として東京に帰任。ここで影佐禎昭大佐より、「汪精衛(汪兆銘)を重慶政府に寝返りさせて、抗日の蔣介石陣営から引き抜く」という、いわゆる「汪兆銘工作」の企画を知らされる。さらに中国側の高宗武より西義顕に対して「お互い気心の知れている」田尻を香港総領事に任命してほしい、との要望があり、報を受けた有田外相はこれを即諾、田尻は1938年11月、香港総領事に就任した。 ただし田尻は汪兆銘に対しては強い批判を持っており、汪兆銘政府成立時には、影佐大佐に対して、「汪が重慶脱出前には占領地の傀儡政府を嫌いながら今になって占領地の政府を統合してその長になろうというのは……私に言わせれば、彼には自分の一身の利害があるだけで、もう中国、中国人のための平和幸福の目標を捨てている。……しかも自分をも裏切るばかりか、占領地の中国人を欺くことにもなる」と痛烈な批判を行っている。 田尻は有田八郎外相に対して汪兆銘政府樹立の再考を進言したが、既に軍部の方針は定まっていた。結局1940年3月、汪兆銘の南京国民政府が成立することとなった。 1940年1月、東亜局第一課長勤務。この時田尻は、汪兆銘との内約を「汪政府と正式に交渉して同意をとりつけ、両政府間、したがって日中両国間の基本条約にしたい」との興亜院の要求を受けた。田尻は「すでに世界に醜悪を暴露した内約」「天下の物笑いになる」と強く反対し、回想録の中では興亜院に対して「狂人ぞろい」とまでの痛烈な批判を行っている。しかし結局は興亜院、軍の意向を受け入れざるを得ず、田尻は、この時期ほど「無意味で無目的な、そして良心に反する痛々しいものはなかった」と回想している。
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