民放ラジオ「復活」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 21:00 UTC 版)
日本では、テレビ放送の開始とラジオの小型化(トランジスタラジオ)が、ライフスタイルと各放送波の関わりを大きく変えた。具体的には、テレビ放送は茶の間で、ラジオ放送は各自の部屋か仕事場で楽しむものとして定着しつつあった。その反面、当時、ラジオだけを所有する人はラジオ受信料を支払う義務があったため、テレビ受信契約を結んだ上でテレビ・ラジオを所有するか、テレビもラジオも持たないかで消費傾向が分かれ、ラジオ受信契約数はテレビの普及にともなって減少した。これと比例するように、民間ラジオ放送局の業績に、一定の伸び悩みが生じた。これを打開するために各局が新機軸として打ち出した2大編成がワイド番組と深夜放送だった。 折しも、労働者や学生などの都市住民を中心に「深夜族」と呼ばれる早朝まで起きている人々が増加し、放送に対する需要は高まっていた。1965年、文化放送は初の若者向け深夜ラジオ番組として『真夜中のリクエストコーナー』を土居まさるのDJでスタートさせた。この成功に刺激される形で、1966年にはラジオ関東が『オールナイトパートナー』(6月10日開始 同局はこれで終夜放送達成)、朝日放送が『ABCヤングリクエスト』(4月開始 - 1986年10月まで放送)、ラジオ大阪が『オーサカ・オールナイト 夜明けまでご一緒に!』(12月開始 - 1968年10月まで放送)を開始するなど、各放送局が相次いで深夜放送を開始した。翌年の1967年には『パックインミュージック』(TBSラジオ)、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『MBSヤングタウン』(MBSラジオ)が放送開始した。1967年度のラジオ広告費は前年度より15.4パーセントの大幅な増額となり、その後も上昇した。 1968年4月にはNHKのラジオ受信料が廃止されて、ラジオを所持するためのコストが大幅に下がり、若者を中心に個人でのラジオ所有が爆発的に広まっていった。その1968年には『ミッドナイト東海』(東海ラジオ)がスタートし、1969年には文化放送が『セイ!ヤング』を放送開始した。 また、ラジオネットワークの整備により、地方局でも地元で東京発の深夜放送の聴取が可能となった。多くの地方局では、1時 - 5時帯に『オールナイトニッポン』『パックインミュージック』のいずれかをネットし、その直前となる21時ないし23時 - 翌日1時帯に自社製作の番組を編成して、若者向けの総合的な編成枠とした。この例に『アタックヤング』(STVラジオ 1970年開始)・『ジャンボリクエストAMO』(東北放送 1969年開始)等が知られる。AM放送の中波は深夜帯において広い範囲で届く(電離層反射の影響)ことから、これら地方発の番組や、ネットされていないキー局の番組でも、多くの地域でリスナーが存在し、全国区の人気獲得に至った。 このように若者向けの番組が人気を博する一方で、深夜3時以降の時間帯に、長距離トラック運転手向けの番組が登場する。1968年スタートの『日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲』(文化放送)が先駆けとなり、1974年にはTBSラジオが『いすゞ歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ〜』をスタートさせ、早朝に近い時間帯で激しい聴取率獲得競争を演じた。 AM深夜放送隆盛の結果、1978年8月の時点で、全国で30社が終夜放送を行うようになった。 短波放送ではラジオたんぱ(ラジオNIKKEIの前身)が、1980年代に深夜の報道番組として『ニュース・オールナイト』を放送していた。
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