正四位の格式と主な叙位者とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 正四位の格式と主な叙位者の意味・解説 

正四位の格式と主な叙位者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:22 UTC 版)

正四位」の記事における「正四位の格式と主な叙位者」の解説

従四位同様、四位にある者の敬称は氏及び諱の下に、朝臣付け名乗り基本である。例として「正四位下伊予守源頼義朝臣」など。 しかし、正四位であっても参議となり、公卿列した者への敬称は氏の下に「朝臣」、諱の下に「卿」と称した一方正四位下公卿昇ることを許されない家柄極位、即ち最高位であり、著名なところでは清和源氏とりわけ摂津源氏河内源氏棟梁多くみられた。清和源氏では初代 経基王その子源満仲、また満仲長男 摂津源氏棟梁 源頼光河内源氏棟梁 源頼義義家親子など河内源氏代々棟梁がその位階に昇った。また、摂津源氏傍系ではある、美濃源氏源光保院近臣として活躍し、娘 土佐局が鳥羽法皇寵妃となったことで正四位下に昇った。一方武家の棟梁として源氏と覇を競った桓武平氏では、公家平氏を別として武家平氏については官位の面でも長らく源氏に遅れをとっていた。しかし、源義家の子 義親九州隠岐国濫妨働き平正盛がこれを討伐したことで、平氏家格上昇させ、その子 平忠盛の代に正四位上刑部卿にまで昇り、その嫡男 清盛29歳若さ正四位下中務大輔安芸守となり、平氏政権の礎を築いている。源氏においては頼朝平氏追討遂げるまでの間、この位階に留まったほか、鎌倉時代鎌倉幕府執権北条氏得宗及び有力一門や有が叙せられ、得宗では北条泰時が、有力一門では北条政村叙せられた。そのほか京都学者貴族出身の有力御家人 大江広元この位階に叙せられている。 戦国時代には飛騨の国大名 姉小路氏北畠氏正四位ないし従三位昇るなど公家大名叙位例が見られる他、一国領主ながら三管領斯波家の女を母とする、源氏名門 村上義清正四位上に昇っている。江戸時代には、御三家水戸藩水戸徳川家当主家門大名では福井藩越前松平家15代中4人)、譜代大名では彦根藩井伊氏17代中3人)、外様大名加賀藩前田氏薩摩藩島津氏12代中、島津斉宣のみ)、仙台藩伊達氏歴代では伊達慶邦のみ)などの大名家昇ることを許された。 明治時代以降正四位上正四位下正四位一本化幕末尊皇攘夷明治維新において亡くなった功労者のうち、従三位以上に叙せられた元勲公卿大名などの華族除いた、特に偉勲著しい者に対して正四位贈位された。 政府においては正四位事務次官大日本帝国陸海軍では、大将階級にある者の初叙位階とされた。その他、国会議員もその経歴実績応じ従一位から正四位の間で叙位される例が多い。 今日栄典制度では、勲二等当の功績ある人物亡くなった際に叙位される。主な例としては国会議員功績著し大学教授名誉教授の称号与えられた者)にその例が見られるまた、学者芸術家などで文化功労者認められた者が死後叙位されることが一般的である。

※この「正四位の格式と主な叙位者」の解説は、「正四位」の解説の一部です。
「正四位の格式と主な叙位者」を含む「正四位」の記事については、「正四位」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「正四位の格式と主な叙位者」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「正四位の格式と主な叙位者」の関連用語

1
8% |||||

正四位の格式と主な叙位者のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



正四位の格式と主な叙位者のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの正四位 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS