横須賀海軍施設とドライドック
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「横須賀海軍施設ドック」の記事における「横須賀海軍施設とドライドック」の解説
終戦後、昭和20年(1945年)8月30日、連合軍が横須賀に進駐し、横須賀の海軍関連施設は全て接収された。そして横須賀海軍工廠は多くの人員が解雇されたが、ドックなどの保守要員約150名はアメリカ海軍を中心とした進駐軍関連の業務を行うため、残留が命じられた。これは横須賀占領の主力を担ったアメリカ海軍は随時艦船修理を行ってはいたが、修理状態が十分なものではなかったので横須賀の基地機能を利用することにしたためであった。やがて復員引き揚げに用いられる艦船や、連合軍、その中でもアメリカ海軍の艦艇修理の仕事が増加していったため、旧海軍工廠の技術者が改めて再雇用されるようになった。そのような中、昭和22年(1947年)4月27日には米海軍艦船修理廠(SRF)が発足する。 昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効したことにより、連合国の占領軍から在日米軍としてアメリカ軍が駐留するようになった。その後横須賀海軍施設は米海軍の艦船修理を行う場所として、その重要性を増すようになった。ベトナム戦争時、横須賀海軍施設は米海軍のあらゆる艦船の補修、修理が可能であるハワイオアフ島のパールハーバー以西の唯一の施設であると評価された。 その後昭和45年(1970年)には、アメリカ側はいったん横須賀海軍施設からの事実上の撤退と佐世保への移転を検討し、日本側との交渉に入った。アメリカ側は横須賀海軍施設の6基のドック全てを日本側に返還し、民間ないし自衛隊が米海軍艦船修理廠(SRF)の業務を引き継ぎ、米海軍艦船の横須賀寄航時には米艦船の修理をそこで行うことを提案した。しかし日本側の受け入れ態勢が整わないため、空母の改修、修理が行うことが可能である6号ドックはしばらくアメリカ側が維持する方向で話が進められていた。アメリカがこのような提案をした理由としては、当時のアメリカの財政難があった。しかしまもなくアメリカの財政状況が好転を見せる中、これらの話は立ち消えとなり、昭和49年(1974年)10月2日には日米共同使用現地協定が締結され、1号、2号、3号ドックはアメリカ海軍と海上自衛隊、4号、5号ドックについてはアメリカ海軍と住友重機械工業との共同利用を行うこととなった、しかし住友重機械工業は3回ドックを使用したのみで共同使用から撤退し、現在まで米軍と海上自衛隊の共同利用が続けられている。 そして横須賀海軍施設を米空母の事実上の母港とする計画が進められるようになった。昭和48年(1973年)10月、空母ミッドウェイが横須賀に初入港し、以後横須賀を事実上の母港とした。その後平成3年(1991年)には空母インディペンデンス、平成10年(1998年)には空母キティホークが横須賀を母港とした。平成20年(2008年)からは原子力空母ジョージ・ワシントンが母港とした後、平成27年(2015年)から原子力空母ロナルド・レーガンが横須賀を母港とするようになり、横須賀海軍施設の機能は現在も維持され続けている。 横須賀海軍施設の6基のドライドックでは、海上自衛隊の艦船とともに空母を始めとする米海軍の艦船の補修、修理が行われており、平成13年(2001年)から平成15年(2003年)にかけて、4号、5号、6号ドックで戦前から使用され続けてきたクレーンが撤去され、新たなクレーンが設置されるなど、設備の更新や補修が継続して実施されている。横須賀造船所、横須賀海軍工廠からの伝統を引き継ぐ米海軍艦船修理廠(SRF)の技術力の高さはアメリカ海軍から高く評価されており、横須賀海軍施設ドックは米海軍の重要拠点である横須賀海軍基地の重要施設として使用され続けている。
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