構成・文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 17:57 UTC 版)
京を中心に『西遊記』は南西日本(西日本)の記述、『東遊記』は北東日本(東日本)の記述が主となっている。紀行一般に見られる旅程に従って見聞を記すといった体裁を採らず、共通する主題は1章にまとめてそれらを旅程と無関係に配置する体裁を採る。 巡遊の見聞を主とすることから現代では紀行に分類されるが、板本両遊記は表題が『諸国奇談 東遊記』等となっており、また板本の大きさが書籍の分類によっておおよそ定められていた当時にあって紀行一般が大本(おおほん)形式(現代のA4版にほぼ等しい大きさ)で出板されたのに対し、それよりも小振りで読本一般の半紙本形式(半紙を二つ折りにした縦24センチ横18センチ前後の大きさ)なので、それらの点から紀行よりも読本の一様式である各地の珍しい話を集めた奇談集として板行され、読者にもそのように受容されていたようで、これは出板当時にそうした奇談集が人気を博していたために、書肆はもちろん南谿自身も奇談集として読まれることを意図したものと考えられる。例えば、『西遊記続編』に収載(巻之三)された「陽気」は、山中での夜間の旅の心細さを解消するために勝手に山焼きを行ったという、山林関係者ならずとも激怒恐慌させる内容となっているが、これなどは南谿が自身を主人公として創作した「奇談」ではないかとさえ疑われ、両遊記中には同様の疑いを起こさせる記述が散見されるので、紀行として旅先における観察を忠実に報告するよりも、むしろ読み物として読者の興味をそそる点を優先したであろう意識がうかがえ、そのことが両遊記が広く読まれることにあずかったものと思われる。なお、両遊記板行以前から奇談集の中には著者が旅先での体験を語るという自身を主人公に見立てた体裁のものが存し、内容の真偽はともかくとしてそうした叙述は紀行との区別をつけかねるものであった。その傾向は、両遊記の刊行によって更に強まったようである。 また、旅程とは無関係に配置する体裁を採った結果として、江戸時代前期におぼろげながらも存在したと思われる林羅山を中心とした名所記や地誌と相関する紀行の制作者集団によって創出された、著者が自身の移動を1本の線として捉えて日付を追いつつ見聞や感慨を記述した従来の紀行とは異なる、日本の国土を面として俯瞰し把握する観点を基本とした新しい地誌的紀行の流れを汲んだものとも評価できるが、旅程と無関係に主題ごとに配置する体裁は先行する百井塘雨の『笈埃随筆』も同様であり、そこに塘雨の影響もうかがえる(後述)。とはいえ、塘雨よりもさらに各章が一箇の短編として印象的にまとめられ、しかも本業に関する医術にまつわる話からたわいもない話、教訓話といったさまざまな話題を平明で知的かつ合理的な文章で綴り、さらにそれらを絶妙に配分している点に特色を持つ。またその文章は、内容が本業である所の医業に直接関係しない「奇事異聞」を記すものであったために、特に改まる必要もなかった結果として平明なものになったと思われるが、その平明さが功を奏し、かえって読者層を広げ板行を重ねる要因になったものとも思われる。 さらに本文と共に注目に値するのが『東遊記』(正編)の挿絵で、そこには円山応瑞・同応受兄弟、山口素絢・渡辺南岳・福居竹堂・長沢蘆雪・吉村蘭洲・同孝敬父子・松村月渓(呉春)・東東洋・浅井義篤・村上東洲といった当代の名だたる絵師のものが施されている。また、『東遊記後編』や『西遊記』(正・続編)にも挿絵があり、それらの絵師は不詳であるが、『西遊記続編』については、明徴を欠くものの速水春暁斎である可能性がある。なお、全編を通してそれらの画題は、本文の情景を絵師が想像によって、または南谿自身による旅行中の素描を基にして描かれたものと思われる。
※この「構成・文体」の解説は、「東西遊記」の解説の一部です。
「構成・文体」を含む「東西遊記」の記事については、「東西遊記」の概要を参照ください。
- 構成・文体のページへのリンク