構成と特色
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全7巻であり、その構成は以下の通り。 覚書 南坊宗啓が書き留めた、利休の談話の聞書 会 利休の茶会記 棚 紹鴎棚や中央卓などの棚飾りの規則 書院 室礼の規則 台子 後述するカネワリ法(曲尺割法)による台子飾りの図集。茶道具の位置を曲尺で寸法を測ったのでこの名がある。 墨引 カネワリ法を中心とした理論書であり、章題は秘伝として墨を引いて消したという意味 滅後 利休自刃後に南坊が記録した回想録 現存しない原本である南坊自筆本は、体裁としては南坊宗啓が書いた後に、利休に証明として在判(「墨引」のみは焼却するようにとの注意書き)をもらっていることになっているが(利休没後に書き足された「滅後」は除く)、実山の創作による演出と捉えられている。 本書の特性は「わび」を強調して、これを「清浄無垢の仏世界」と規定する仏教(禅宗)中心主義の立場を明確にとっている点である。禅宗を強調する点は利休時代の確実な秘伝書である『山上宗二記』にも見られるものの、同時代の茶書に較べると精神論の比重が際立って高く、用いている用語に関しても『禅茶録』のような江戸時代の茶書に近い。これは実山の実兄が禅宗の僧であったことも影響していると考えられる。しかし著者の南坊宗啓は禅宗の僧だから禅の精神論が本に取り入れられるのは不思議ではないとも考えられる また、「台子」や「墨引」では、書院で用いる台子の飾りに関して、「カネワリ法」と呼ばれる煩雑な規則を詳述している。この「カネワリ法」は中国の陰陽論を基にした理論先行の体系であるが、本来は大工や工芸家が寸法の比例関係に用いていたものであり、茶の湯における「カネワリ法」の資料はこの『南方録』のほかに類例が少ない。その発生時期からして不明であり、西山松之助によればこれが芸事に応用されるようになるのは江戸時代初期からとされている。 本書には、「わび茶」と「書院の茶」という二種類の別個に自立性を持った喫茶文化が並存しており、理論的には主張が一貫していない。これを根拠に、かつて利休が北向道陳から学んだ書院の茶と、武野紹鴎から学んだわび茶を止揚したと主張する説もあるが、後述するように複数の秘伝書から編纂された痕跡と捉えることもできる。
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構成と特色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/08 23:06 UTC 版)
主に茶入、茶壺、掛軸(掛幅)といった茶道具とその所持者を評価の高い順序に従って列挙しており、これにより当時の茶道具のヒエラルキーが判明する。またそれぞれの道具に関しての心得が記されているが、要所要所で「口伝」と言って筆を止めており、金子(金銭)による口伝の伝授が行われていたと推測されている。後半になると「茶湯者覚悟十躰」として、「一期に一度」など茶人の心構えが説かれる。しかし特に重要視されているのは、「名物」を持たない「侘数寄」であっても名士などに気後れをしてはならないといった態度であって、『南方録』のような禅宗を特別に強調した過剰な精神論ではない。 「二月本」には冒頭に「珠光一紙目録」という資料が掲載され、自らの茶の湯の起源を村田珠光(応永30年・1423年 - 文亀2年・1502年)に遡らせて権威付けている。しかしここでは珠光が能阿弥(応永4年・1397年 - 文明3年・1471年)を通じて東山時代の足利義政(永享8年・1436年 - 延徳2年・1490年)に茶の湯を教えたとしているものの、義政が小川御所を出て東山に隠棲したのは能阿弥没後の文明7年(1475年)であるから、この部分に関しては信頼するに足らない。ただし、義政が隠居を決意したのは1464年(寛正5年)であり、能阿弥に君台観左右帳記を編纂させるなど東山時代以前に趣味生活に入っているから、珠光が能阿弥を介して小川御所時代の義政に茶を教えた可能性はなお残る。なお、「珠光一紙目録」前半部は、他の部分と明らかに筆致が違い、あるいは「坊主(利休)より請け取り申し候は、今度の身上乱れ候時、失い申し候」と記す一巻を正確になぞったものとも考えられる。
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