梶山古墳
名称: | 梶山古墳 |
ふりがな: | かじやまこふん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 鳥取県 |
市区町村: | 鳥取市国府町 |
管理団体: | 鳥取市(昭55・3・24) |
指定年月日: | 1979.04.21(昭和54.04.21) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S53-12-032[[梶山古墳]かじやまこふん].txt: 鳥取県の東部、古代因幡国の中心にあたる法美平野を東から西に袋川が流れている。梶山古墳はこの袋川が平野の東南方に姿を現わす付近の山合の梶山と呼ばれる小丘陵に営まれた装飾古墳である。この古墳は古くから開口していて、大正年間にも紹介され、昭和16年頃防空壕となり内部から排土されたことがある。昭和53年、装飾のあることが確認されたものである。 古墳は直径約20メートルの円墳で、南面する山地の凹部を加工して築造されている。主体部は横穴式石室で石材は凝灰岩の切石を用いている。玄室は石棺状を呈し、奥行2.35メートル、幅1.37メートル、高さ約1.6メートルある。羨道部は長さ6メートル、幅1.5~1.6メートルを計り、玄門近くの羨道の天井は中高となり前室状を呈する。玄室は玄門部を除いた3面と天井が各々1枚石でていねいに作られている。玄門は両側石から造り出されていて、前面に扉石をはめこむためのくり込みがみられる。羨道の床面上に組合式石棺の底石とみられる凝灰岩がある。 装飾は奥壁に施された赤黄色の彩色によるもので壁面上半に描かれる。上方には細い線で三角文と同心円文が左右対称にあり、その中間に図文不明の曲線文がある。その下には右向の魚が筆太に描かれている。さらに下には、直径約40センチの円文状2個があるが、この古墳は採集された須恵器片や石室の構造からみて6世紀後半から7世紀にかけての築造と考えられている。 梶山古墳の装飾は、三角文・円文・同心円文・魚等、九州地方を含む各地の装飾古墳に用いられるモチーフがみられるが、魚を中心とする組合せや描出に特色がある。石室も切石積の美麗なもので、この地域の後期古墳として特色あるものである。 本古墳は彩色ある装飾古墳として時代の下降する高松塚古墳の例を除くと中部から中国地方にかけて初めて確認された本格的な図文をもつものであり、重要なものであるので、指定し保存を図るものである。 |
梶山古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 00:15 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動梶山古墳 | |
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![]() 墳丘全景 |
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所在地 | 鳥取県鳥取市国府町岡益 |
位置 | 北緯35度27分5.39秒 東経134度17分41秒 |
形状 | 変形八角形墳 (方形壇あり) |
規模 | 対角長17m 一辺2.5-8.5m |
築造時期 | 6世紀末-7世紀初頭 |
被葬者 | (伝)麻績王(麻続王) |
史跡 | 国の史跡「梶山古墳」 |
特記事項 | 装飾古墳 |
地図 |
梶山古墳(かじやまこふん)は、鳥取県鳥取市国府町岡益にある古墳。形状は変形八角形墳。国の史跡に指定されている。
1978年(昭和53年)に中国地方で初めてとなる彩色壁画が発見されて注目された。その後の発掘調査で、日本最古の方形壇を持つ変型八角形古墳であることも確認された。
概要
本古墳は、丘の南面を幅約40メートルの馬蹄形に掘りくぼめ、底部を25メートル四方ほどに整地している。墳丘部は対角長17メートル、一辺2.5~8.5メートルの変型八角形となっている。
墳丘の前(南面)には方形壇(祭祀を行う広場)が築かれている。方形壇は長さ2メートル、幅14メートルあり、玄武岩の石垣で三段にわたって築かれている。
遺物は、須恵器・土師器・刀子・棺金具状鉄製品、金製の薄延べ板などが出土しており、これらの出土遺物から本古墳の築造年代は6世紀末から7世紀初、古墳時代の後期~終末期と推定される。
石室と彩色壁画
石室は墳丘の南面にある。内部には凝灰岩を切石とした横穴式石室を構築している。石室の全長は9メートルほどで、幅60~80センチメートルあり、玄室・玄門・前室・羨道の部分からなり、玄室の高さは1.8メートルほどある。前室部の高さは2.1 メートルほどで、石室の中では最も高い。
石室の奥壁にはベンガラ(赤黄色の彩色)で魚や同心円(日・月)、竜文、三角文を描いている。石室は早くから開口しており、子供の遊び場となっていたが、1978年(昭和53年)5月、梶山古墳を訪れた同志社大学教授・森浩一により、彩色壁画であることが確認された。後になって、石室奥壁の壁画のことを地元の小学生が作文に書いていたことも分かった。
壁画の主題である魚は体長53センチメートルで、鮭か鯉を描いたと見られる。鮭は死者がもう一度よみがえり、生前の姿を見せてほしいという追慕の気持ち、鯉は滝を登ると竜に変わる『竜文の鯉』という中国の故事に由来しており、いずれにしても死者を弔う祈りの印である。
被葬者
被葬者については不明であるが、675年(天武4年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王)であるとの説が有力である。
八角形の墳丘・壁画の魚・南面するプランなどは道教思想が濃厚であること、石室の切石の精巧な技術、壁画の技術などから大陸文化の影響が強くうかがえ、被葬者は相当に身分の高い人物であったことが想像される。
遺跡の現状
古墳は発掘調査での発見に基づき、変型八角形の墳丘部や方形壇が復元されている。
石室は壁画保存のために扉が設けられており、観覧することはできないが、外部と石室内の気温差が少ない春か秋に、三日間ほど一般公開される。また、近くの因幡万葉歴史館には原寸大の石室レプリカが展示されている。
文化財
国の史跡
- 梶山古墳 - 1979年(昭和54年)4月21日指定[1]。
周辺
- 因幡万葉歴史館
- 因幡国庁跡
- 万葉の館 - 天平時代の因幡地方の歴史をテーマにした歴史博物館。梶山古墳の石室レプリカや国府町周辺の歴史民俗資料が数多く展示されている。
- 雨滝 - 日本の滝百選
- 宇倍神社
- 鳥取藩主池田家墓所
- 伊福吉部徳足比売の墓跡
- 岡益の石堂
- 因幡三山
脚注
外部リンク
固有名詞の分類
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