松谷との共同生活とは? わかりやすく解説

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松谷との共同生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 15:04 UTC 版)

瀬川拓男」の記事における「松谷との共同生活」の解説

1953年人形座を離れ教育紙芝居研究会に入る。稲庭佳子紹介街頭紙芝居グループみどり会」の指導てがけるみよ子結核再発し入院したため、彼女の看護にあたる。1954年街頭紙芝居作家組合事務局長引き受ける。紙芝居日本一時期下町の子どもたちに大人気であったが、その流行もやがて下火になりテレビにとって代わられるうになる1954年葛飾区金町求めた家で曽根喜一白土三平仲間共同生活始める。金町の家では近隣の子どもを集めて子ども会活動行った1955年11月、病の癒えたみよ子結婚12月金町の家を本拠として「劇団太郎座」を立ち上げ主宰運営にあたる。1956年信州皮切りにみよ子とともに民話採訪始める。1957年みよ子との共著信濃民話』を出版1958年長女誕生同年みよ子との共著秋田民話』を出版1955年テレビ初仕事として、動く絵話「どじ丸物語」(瀬川拓男作)がNHK放送される。これ以降テレビ番組仕事回ってくるようになる。絵話、影絵人形劇加え、1957~60年NHK教育テレビジョン番組かずとことば」(人形劇と絵話、瀬川拓男台本)、1960年からの理科教室小学校1年生なんなんなあに」(瀬川1963年まで台本担当)などのレギュラー番組もあった。テレビ番組の制作やりがいもあり、太郎座財政的ゆとりをもたらしたが、団員には大きな負担ともなった1961年11月太郎座第一回公演としてみよ子作、拓男脚色人形劇竜の子太郎上演1962年太郎座公演人形オペラうぐいす姫」と「竜飛の神の物語」。1963年9~10月にはTBSの子劇場で「竜の子太郎一回30分の8回シリーズ放送されるこのころ瀬川太郎座に「たろうプロ」を併設し、人形劇団としてだけでなくプロダクションとしての活動展開し始める。1964年8月太郎座厚生年金ホール人形劇竜の子太郎」を再上演し東京都児童演劇優秀賞児童福祉文化賞厚生大臣賞を受賞1965年1月からは日本テレビおはよう!こどもショーの中で「それいけトッピーのコーナー太郎座担当トッピー1968年秋まで続いた1966年道林一郎演出共同映画制作人形劇映画竜の子太郎」に太郎座出演。この映画親子映画運動母と子劇場)の第一作となり、東京都教育映画銀賞受賞するこの年二女誕生瀬川この後自身原作山形雄策脚本家城巳代治監督による「黒姫物語」と「ちから太郎」の制作にもかかわっていく。 太郎座舞台テレビで人形劇公演活発に行うが、運営上の意見の相違から、古くからの参加者次々とやめていき、代わって新しメンバー劇団参加ということ繰り返されていく。みよ子新メンバーや拓男との間に深い溝を感じるようになり、1967年3月自身から離婚申し出て2人の子供を連れて家を出る

※この「松谷との共同生活」の解説は、「瀬川拓男」の解説の一部です。
「松谷との共同生活」を含む「瀬川拓男」の記事については、「瀬川拓男」の概要を参照ください。

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