東海道新幹線の開通と特急の転機
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「近鉄特急史」の記事における「東海道新幹線の開通と特急の転機」の解説
1964年(昭和39年)10月1日 東海道新幹線が開通。 「ひかり」が名阪間を1時間31分(翌年11月、1時間8分に短縮)で走行し始めると、名阪甲特急は速度では勝負にならず、以後急速に衰退していく。その一方、新幹線の開通により東京 - 名古屋 - 京都 - 大阪の所要時間が大幅に短縮されたので、近鉄はそれら各地の駅から新幹線に接続して、伊勢志摩、奈良、吉野といった、沿線に存在する観光地への観光客輸送を図るようになり、近鉄の特急が各線に設定され種類が増加するきっかけともなった。早速、1964年東京オリンピックで日本を訪れた外国人観光客などを奈良県内の観光地に誘致する目的もあり、新幹線開通と同時に京都線・橿原線の京都駅 - 橿原神宮駅間を結ぶ、それまでの料金不要の特急を有料特急とした、「京橿特急」(京都特急)が6往復設定された。車両は旧奈良電のそれを改造したものを使用した。また、橿原線と大阪線の交差する大和八木駅では「阪伊乙特急」と接続し、京都から伊勢志摩方面への利便も図られた。しかしながらまだこの時点では、後述する国鉄の準急列車「鳥羽」の方が乗換える手間が無かったため、京都から伊勢志摩へ行くのには広く使われていた。 12月1日 京都駅 - 奈良駅間に5往復の有料特急である、「京奈特急」が登場。 1965年(昭和40年)3月18日 南大阪線・吉野線の大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間を結ぶ、有料の「吉野特急」が6往復設定される。この時、快速「かもしか」は廃止された。停車駅は橿原神宮駅駅・下市口駅・大和上市駅・吉野神宮駅。一部の「名阪乙特急」・「阪伊乙特急」が名張駅または榊原温泉口駅(同日、佐田駅より改称)に停車開始。また、吉野特急と接続する京橿特急についても、橿原神宮前駅で吉野特急との間で乗り継ぎが可能となるようダイヤが修正され、京奈特急が1往復増発となった。 この関係で京橿・京奈特急に充当される特急車が不足し、予備特急車である非冷房の683系が定期運用に充当されただけでなく、「予備特急車の予備」として旧奈良電由来のセミクロスシート車であるモ670形2両までもが動員される有様となり、有料特急としてのサービスに深刻な格差が生じる結果となった。このため、旧型車の機器流用ではあったが18000系として、ようやく京橿・京奈特急専用の正規特急車が新造された。 7月15日 上本町駅 - 湯ノ山駅(後の湯の山温泉駅)間に2往復、名古屋駅 - 湯ノ山駅間に2往復の「湯の山特急」が新設される。湯の山温泉・御在所岳等観光地の多い湯の山へ客を誘致するのが目的で、近鉄湯の山線が軌間762mm(狭軌・ナローゲージ・軽便鉄道)から、一気に他の路線と同じ1,435mmの標準軌へ1964年(昭和39年)3月に改軌されたのを受け、運行を開始した。3往復あった「名阪乙特急」は、2往復が「湯の山特急」、1往復が「阪伊乙特急」及び「名伊乙特急」に立て替えられ、「湯の山特急」は榊原温泉口駅にも停車した。これにより「名阪乙特急」が一旦消滅(1967年5月まで)。 10月1日 「名伊甲特急」新設(宇治山田行のみ伊勢市駅停車)。 1966年(昭和41年)1月20日 特急料金制度を三角表示方式より現在の対キロ制に制度変更。同時に乗り継ぎ料金制度が導入され、同一駅で30分以内での特急から別の特急への乗継ぎであれば通し料金で計算するようになった。 12月20日 京都駅 - 宇治山田駅間に2往復の「京伊特急」 を新設。京都から伊勢まで近鉄でも直通できるようになった。当時京都線・橿原線は直流600V、大阪線・山田線は直流1,500Vと架線電圧と車両限界(京都線、橿原線は当時大型車入線不可能)が異なっていたため、複数の電圧区間を直通できる車両(複電圧車)である、18200系電車が投入された。なおこの時は橿原線 - 大阪線間を結ぶ大和八木駅付近の連絡線配置の都合上、京都方面から来た列車は「 - (橿原線)八木駅 - 八木西口駅(運転停車・折り返し) - 八木駅構内(折り返し) - (大阪線)八木駅 - 」と、2回も折り返し(スイッチバック)を行って伊勢方面に向かっていた(京都方面はその逆)。停車駅は大和西大寺駅・大和八木駅・伊勢中川駅・松阪駅・伊勢市駅(宇治山田行のみ)。 1967年(昭和42年)6月1日 夜間の「名阪甲特急」を「名阪乙特急」に変更し、復活。この頃10100系第3編成を使用して営業列車で「テレビカー」の試験を実施する(本採用には至らず)。 12月20日 橿原線の新ノ口駅 - 大阪線の大和八木駅間に短絡線が新設され、「京伊特急」は同線を経由するようになり、スイッチバックは解消された。また「スナックカー」と呼ばれることになる、「スナック(軽食)コーナー」を設けた12000系電車が登場し、不振の続く「名阪甲特急」などに投入され、ビスタカーの10100系にも一部にスナックコーナーを設置した(この時名阪間の国鉄:近鉄のシェアは、8:2程度(正確には19%)にまで落ち込んでいた)。また「湯の山特急」は上本町駅 - 近畿日本四日市駅および近畿日本四日市駅 - 近畿日本名古屋駅間で「名阪乙特急」と、「京伊特急」は大和八木駅以降伊勢方面で「阪伊乙特急」と併結になった。「阪伊甲特急」を週末に運転(停車駅は鶴橋駅・伊勢市駅)。「阪伊乙特急」が伊賀神戸駅に、「名伊乙特急」が白子駅に、それぞれ一部列車が停車開始。宇治山田行のみ停車で降車専用だった伊勢市駅に、宇治山田発も停車開始。 この「スナックカー」以降、近鉄特急車では従来の回転式クロスシートや転換式クロスシートに代えて、偏心回転式リクライニングシートが標準となり、接客設備のグレードアップが実現した。
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