東正面の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:13 UTC 版)
東方面においては日本軍は第1方面軍が、ソ連軍は第1極東正面軍が担当していた。日本軍の10個師団と独立混成旅団・国境守備隊・機動旅団各1個に対し、ソ連軍は35個師団と17個戦車・機械化旅団基幹であった。日本の第1方面軍は、国境の既存防御陣地を保守し、ソ連軍の主力部隊が進行した後は後方からゲリラ戦を以って奇襲を加える防勢作戦を計画していた。牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置、同方面軍の任務は、侵攻する敵の破砕であったが、二次的なものとして、満州国と朝鮮半島の交通路の防衛、方面軍左翼の後退行動の支援があった。 しかし、日本軍の各部隊の人員や装備には深刻な欠員と欠数があり、特に陣地防御に必要な定数を割り込んでいた。同方面軍の主力部隊の一つであった第5軍を例に挙げれば、牡丹江沿岸、東京城から横道河子の線において敵を拒否する任務を担っていたが、銃剣・軍刀・弾薬・燃料だけでなく、火器・火砲にも欠数が多く、銃・軽機関銃、擲弾筒は定数の三分の一から三分の二程度しかなく、また火砲は第124師団、第135師団ともに定数の三分の二以下、第124師団は野砲の欠数を山砲を混ぜて配備し、第135師団は旧式騎砲、迫撃砲で野砲の欠数を補填しているほどであった。 一方メレツコフが指揮する第1極東正面軍は日本軍の強固な要塞地帯の攻略を担当し、最も困難な任務を抱えていた。メレツコフは奇襲を成功させるため、通常の準備砲撃を省略し、雷雨の中偵察大隊を越境させた。30分後には歩兵部隊が日本軍の陣地に浸透し、機械化兵力の前進路を切り開いた。各狙撃師団は傘下の戦車旅団を解き放ち、各戦車旅団は1日で満州領内22キロの地点に到達、日本軍の要塞は迂回し後続の部隊に排除を任せた。実際の戦闘においては第二十五軍、第三十五軍団を主力部隊とする極東方面軍の激しい攻撃を受けることになった。天長山・観月臺の守備隊は敵に包囲され、天長山守備隊は15日に全滅、観月臺は10日に陥落した。また八面通正面では秋皮溝守備隊は9日に全滅、十文字峠・梨山・青狐嶺廟の守備隊も10日にソ連軍の圧倒的な攻撃を受けて陥落、残存した一部の部隊は後退した。平陽付近では、前方に展開していた警備隊がソ連軍の攻撃で全滅し、残りの守備隊は8月9日に夜半撤退したが、10日にソ連軍と遭遇戦が発生し、離脱したのは850人中200人であった。このように各地で抵抗を試みるもその戦力差から悉くが撃破・殲滅されてしまい、ソ連軍の攻撃を遅滞させることはできても、阻止することはできなかった。 東部正面最大都市、牡丹江にソ連軍主力が向かうものと正しく判断した清水司令官は、第124師団、その後方に第126・第135師団を配置、全力を集中してソ連軍侵攻を阻止するよう処置した。ソ連第5軍司令官クルイロフ大将は増強した戦車旅団を牡丹江に差し向け、さらに2個狙撃師団を出撃させた。穆稜を守備する第124師団(椎名正健中将)の一部は12日に突破されたが、後続のソ連軍部隊と激戦を続け、肉薄攻撃などの必死の攻撃を展開、第126、第135師団主力とともに15日夕までソ連軍の侵攻を阻止し、この間に牡丹江在留邦人約6万人の後退を完了することができた。牡丹江には戦車旅団に先導された4個狙撃師団が殺到し、2日に渡る壮絶な市街戦の末、日本軍5個歩兵連隊が全滅した。牡丹江東側陣地の防御が限界に達した第5軍は、17日までに60キロ西方に後退、そこで停戦命令を受けた。南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置していた。8月16日には牡丹江市が陥落した。一方この正面に進攻したソ連軍第25軍は、北鮮の港湾と満州との連絡遮断を目的としていた。羅子溝の第128師団(水原義重中将)、琿春の第112師団(中村次喜蔵中将)は其々予定の陣地で激戦を展開、多数の死傷者を出しながら停戦までソ連軍大兵力を阻止した。広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けた第3軍は、よく善戦して各地で死闘を繰り広げたが停戦時の17日にはソ連軍が第2線陣地に迫っていた。
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