東大時代と軍隊入隊
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1934年、旧制浦和高等学校文科甲類を卒業、東京帝国大学文学部国文学科に入学し、京助を喜ばせた。同年4月10日、高校生活の最後を飾る意図で、埼玉県入間郡の吾野から越生まで単身徒歩旅行をおこなう。同月から杉並の実家に戻り、大学に通う。当時、東京帝国大学言語学科で助教授を務めていた京助と共に家を出て学校に行くことがしばしばあった。藤村作や久松潜一の講義に失望し、橋本進吉の国語学演習に注目したが、講義の準備に手間がかかりすぎたため、3年の時にはこの講義に出席することを断念した。父京助によるアイヌ語の講義も受けた。益するところ最も大きかったのは、邦楽学者・田辺尚雄の講義「日本音楽の理論と歴史」であった。田辺の影響で謡曲を習った時は挫折したものの、音楽(特に邦楽)への学問的関心は生涯失わなかった。さらに、春と夏だけ植物同好会に入り、牧野富太郎の謦咳に接した。 当初は方言学の研究を志していたものの、方言学の論文を書いても就職できないとおもい、日本語の歴史的研究に没頭する。1936年4月、満州より帰国し東京帝国大学講師に就任した服部四郎から直接指導を受けるようになる。卒業論文では、平安時代のアクセントを示す好個の資料である観智院本『類聚名義抄』を題材にして、日本語のアクセントを歴史的に研究した。1937年に東京帝国大学文学部国文学科を卒えて東京帝国大学大学院に進み、埼玉県東部方言のアクセントを調査する。秋に東京方言学会で研究成果を発表したところ、東條操教授から高く評価され、学界での評価の礎を築いた。このころ、田辺を慕って東洋音楽学会に入会する。 1938年4月16日、大学院に籍を置いたまま応召して甲府の歩兵第49連隊に入営、間もなく龍山の歩兵第79連隊に移された。学歴を使い幹部候補生に応募する事をせず、通常の徴兵検査を通し入営した為、二等兵として軍隊生活を送る事となった。兵士としては無能であり、新兵に対する激しいしごきに苦しみ、のちにこの時期を自らの人生で最もつらい半年間だったと回想している。7月、マントー氏反応(現在のツベルクリン反応)を見る注射の痕を意図的に掻き毟り、軍医に結核と誤診させて龍山の陸軍病院に入院する。秋に首尾よく除隊となり、半年ぶりに帰京する。このとき、麻布中学校教諭平山輝男が九州や北陸のアクセント研究を学会で発表していることを知って焦りを持つ。秋に房総半島、冬に伊豆半島下田のアクセントをそれぞれ調査する。 1939年4月、東京帝国大学大学院に再入学。3月には単身伊豆大島に渡り、4月までアクセントを調査する。続いて、静岡県、山梨県、長野県、愛知県、近畿地方、香川県、徳島県、愛媛県などを調査する。傍ら、平家琵琶や仏教歌曲を題材に過去の日本語のアクセントを1年間研究する。この時の研究が、後年(1962年)博士論文の材料となる。
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