東大大学院を経て、東京外国語大教員へ
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「中嶋嶺雄」の記事における「東大大学院を経て、東京外国語大教員へ」の解説
東京大学大学院社会学研究科を受験し、合格。国際関係論を専攻する(指導教官は江口朴郎)。大学院在学中、当時の中華人民共和国で吹き荒れていた毛沢東思想へ疑問を感じるようになり、『現代中国論-イデオロギーと政治の内的考察』(1964年、青木書店)を著し、毛沢東を批判する。その後、母校の東京外国語大学の教員である伊東光晴(経済学担当)、鐘ヶ江信光(中国語担当)、小川芳男(当時の学長)から「助手に採用したい」との申し出を受け、1965年に大学院修了[要出典]後、東京外国語大の教員となる。中国で文化大革命が起こると、人事院総裁に直訴し、禁止されていた「国家公務員の共産圏渡航」を認めさせ、中国を訪問する。1966年、香港・広州・北京・上海などを訪れ、『毛沢東語録』を片手に持つ紅衛兵と共にピアノとヴァイオリンの合奏を行うなど、様々な交流をした。これらの経験から得た情報を元に、『中央公論』に『毛沢東 北京脱出の真相』と題する論文を投稿した。 1968年、大学紛争が発生して全共闘により、東京外国語大学も封鎖される。この影響で、中嶋の研究室も荒されて放火された。文化大革命や大学紛争を見ているうちに、左翼思想から完全に転向することとなる。 また金嬉老事件の際、鈴木道彦や中野好夫、日高六郎、宇野重吉らと共に銀座東急ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書をとりまとめて、後日文化人・弁護士5人がその文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見した。 詳細は「金嬉老事件#備考」を参照 大学紛争終息後の1969年から1年半、外務省特別研究員として香港へ留学。当時の日本で文革に好意的なムードが支配的な中、文革を権力闘争として突き放した視点からの論考を多数発表した。そのうちの代表的なものは『北京烈烈』に収められ、1981年のサントリー学芸賞を受賞した。以後現代中国論を中心に幅広く執筆し、保守派の論客として名をなした。 東京外国語大学では国際関係論のゼミナールを担当。1977年、オーストラリア国立大学現代中国センター教員として1年間オーストラリアに在住。1980年、東京大学から「中ソ対立と現代 : 戦後アジアの再考察」にて 社会学博士の学位を取得し、パリ政治学院客員教授となる。1992年、カリフォルニア大学サンディエゴ校大学院客員教授となり、中国の政治と国際関係についての講義を1年間受け持つ。この時、アメリカの学生の学業に対する熱心さを感じた。
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