東大大学院を経て、東京外国語大教員へとは? わかりやすく解説

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東大大学院を経て、東京外国語大教員へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 04:08 UTC 版)

中嶋嶺雄」の記事における「東大大学院を経て、東京外国語大教員へ」の解説

東京大学大学院社会学研究科受験し合格国際関係論専攻する指導教官江口朴郎)。大学院在学中当時中華人民共和国吹き荒れていた毛沢東思想疑問感じるようになり、『現代中国論-イデオロギー政治内的考察』(1964年青木書店)を著し毛沢東批判するその後母校東京外国語大学教員である伊東光晴経済学担当)、鐘ヶ江信光中国語担当)、小川芳男当時学長)から「助手採用したい」との申し出を受け、1965年大学院修了[要出典]後、東京外国語大教員となる。中国文化大革命が起こると、人事院総裁直訴し、禁止されていた「国家公務員共産圏渡航」を認めさせ、中国訪問する1966年香港広州北京上海などを訪れ、『毛沢東語録』を片手に持つ紅衛兵と共にピアノヴァイオリン合奏を行うなど、様々な交流をした。これらの経験から得た情報元に、『中央公論』に『毛沢東 北京脱出真相』と題する論文投稿した1968年大学紛争発生して全共闘により、東京外国語大学封鎖される。この影響で、中嶋研究室荒されて放火された。文化大革命大学紛争見ているうちに、左翼思想から完全に転向することとなる。 また金嬉老事件の際、鈴木道彦中野好夫日高六郎宇野重吉と共に銀座東ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書とりまとめて後日文化人弁護士5人がその文書吹き込んだテープ持って金嬉老訪ね会見した詳細は「金嬉老事件#備考」を参照 大学紛争終息後1969年から1年半外務省特別研究員として香港留学当時日本文革好意的なムード支配的な中、文革権力闘争として突き放した視点からの論考多数発表したそのうち代表的なものは『北京烈烈』に収められ1981年サントリー学芸賞受賞した以後現代中国論を中心に幅広く執筆し保守派論客として名をなした。 東京外国語大学では国際関係論ゼミナール担当1977年オーストラリア国立大学現代中国センター教員として1年間オーストラリア在住1980年東京大学から「中ソ対立現代 : 戦後アジア再考察」にて 社会学博士学位取得しパリ政治学院客員教授となる。1992年カリフォルニア大学サンディエゴ校大学院客員教授となり、中国の政治国際関係についての講義1年間受け持つ。この時、アメリカ学生学業対する熱心さを感じた

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