東大寺と国司の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/15 02:56 UTC 版)
こうした東大寺の動きに国司側は反発し、南の板蠅杣(後の黒田荘)とともに天喜年間以後たびたび衝突していった。更に伊勢平氏の平正盛が、六条院領にすることを名目にこの地域に周辺に進出、承徳元年(1097年)に東大寺領と主張する地域に鞆田荘が設置された。この頃より玉滝杣は玉滝荘と呼ばれ、周辺の鞆田荘・内保荘・真木山荘・湯船荘とともに、伊勢平氏と東大寺の支配権を巡る紛争が長く続いたが、治承の乱以後東大寺領として確定される。この時期には玉滝荘は同荘及び周辺の4つの荘園が1つの地域として認識されるようになり、建仁元年(1201年)には、地域全体が玉滝荘の四至として認められた。
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