東大寺での仕事とは? わかりやすく解説

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東大寺での仕事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 14:10 UTC 版)

運慶」の記事における「東大寺での仕事」の解説

治承4年1180年)の南都焼討で主要伽藍焼失した東大寺復興造仏には、康慶中心とする奈良仏師携わっている。建久5年1194年)から翌年にかけて、東大寺南中二天像が造立されたが、このうち西方担当小仏師として「慶」の名が記録にみえる建久7年1196年)には康慶主導で、快慶定覚とともに東大寺大仏両脇侍像(如意輪観音虚空蔵菩薩)と大仏殿四隅安置する14メートルに及ぶ四天王像造立という大仕事携わる運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩像大仏師務め四天王像のうち増長天大仏師担当している(『鈔本東大寺要録』『東大寺続要録』)。以上の諸像はその後建物とともに焼失して現存しない(快慶金剛峯寺像、海住山寺像をはじめ大仏殿像の形式模したといわれる四天王像多く造られ、「大仏殿四天王像」と称される)。現存するこの時期作品としては建仁3年1203年造立東大寺南大門金剛力士仁王)像がある。造高約8.5メートルに及ぶ巨像2躯は、1988年から1993年にかけて解体修理実施された。その結果阿形像の持物金剛杵内面墨書吽形像の像内納入経巻の奥書から、運慶快慶定覚湛慶運慶の子)の4名が大仏師となり、小仏多数率いてわずか2か月造立したものであることがあらため裏付けられた。4人の大仏師役割分担については諸説あるが、運慶が両像の制作総指揮あたったものと考えられている。この功績により、建仁3年1203年)の東大寺供養の際、運慶僧綱極位である法印に任ぜられた。これは奈良仏師系統仏師として初めてのことであった承元2年1208年)から建暦2年1212年)にかけては、一門仏師率いて興福寺北円堂本尊弥勒仏以下の諸像を造っている(『猪熊関白記』、弥勒仏像像内納入品)。これらのうち弥勒仏像無著菩薩世親菩薩像北円堂現存し運慶晩年完成様式伝える。殊に無著世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作数えられている。同堂四天王像はいま平安時代初期造立木心乾漆像に替わっているが、興福寺南円堂伝来した四天王像が本来の北円堂であった可能性説かれている。 最晩年運慶仕事は、源実朝北条政子北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で建保4年1216年)には、実朝養育であった大弐局発願した、神奈川称名寺光明院現存する大威徳明王像造った。更に、源実朝持仏堂北条義時大倉薬師堂北条政子勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている[要ページ番号]。 同像の納入文書記載によれば、本像は大日如来像、愛染明王像とともに造立されたものだが、これら2像は現存しない。

※この「東大寺での仕事」の解説は、「運慶」の解説の一部です。
「東大寺での仕事」を含む「運慶」の記事については、「運慶」の概要を参照ください。

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