東大寺での仕事
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治承4年(1180年)の南都焼討で主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わっている。建久5年(1194年)から翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる。建久7年(1196年)には康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(如意輪観音、虚空蔵菩薩)と大仏殿四隅に安置する約14メートルに及ぶ四天王像の造立という大仕事に携わる。運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩像の大仏師を務め、四天王像のうち増長天の大仏師を担当している(『鈔本東大寺要録』『東大寺続要録』)。以上の諸像はその後建物とともに焼失して現存しない(快慶作金剛峯寺像、海住山寺像をはじめ大仏殿像の形式を模したといわれる四天王像が多く造られ、「大仏殿様四天王像」と称される)。現存するこの時期の作品としては建仁3年(1203年)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像がある。造高約8.5メートルに及ぶ巨像2躯は、1988年から1993年にかけて解体修理が実施された。その結果、阿形像の持物の金剛杵内面の墨書や吽形像の像内納入経巻の奥書から、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の4名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられた。4人の大仏師の役割分担については諸説あるが、運慶が両像の制作の総指揮にあたったものと考えられている。この功績により、建仁3年(1203年)の東大寺総供養の際、運慶は僧綱の極位である法印に任ぜられた。これは奈良仏師系統の仏師として初めてのことであった。 承元2年(1208年)から建暦2年(1212年)にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏以下の諸像を造っている(『猪熊関白記』、弥勒仏像像内納入品)。これらのうち弥勒仏像、無著菩薩・世親菩薩像が北円堂に現存し、運慶晩年の完成様式を伝える。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。同堂四天王像はいま平安時代初期造立の木心乾漆像に替わっているが、興福寺南円堂に伝来した四天王像が本来の北円堂像であった可能性が説かれている。 最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で、建保4年(1216年)には、実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院に現存する大威徳明王像を造った。更に、源実朝の持仏堂、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている[要ページ番号]。 同像の納入文書の記載によれば、本像は大日如来像、愛染明王像とともに造立されたものだが、これら2像は現存しない。
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