東京高師卒業までとは? わかりやすく解説

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東京高師卒業まで(1893-1922)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 15:51 UTC 版)

茂木善作」の記事における「東京高師卒業まで(1893-1922)」の解説

1893年明治26年12月10日山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる。茂木家は農家で、善作は三男であった当時はまだ、農家三男普通に学校通え時代ではなく晩年茂木両親兄弟にいつも感謝していた。1913年大正2年)に山形県師範学校山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する山形師範では中等学校中距離走大会でトップ取っており、山形県マラソン競走では4年連続優勝果たしたその後尋常高等小学校(現・遊佐町立蕨岡小学校)に赴任する茂木自転車持っておらず、本楯自宅から岡小まで毎日走って通勤し夏休みには学校近くにある小物忌神社520段の石段トレーニング利用していた。また岡小勤務時代歩兵第32連隊で6週間兵役従事し当時汽車は遅すぎて茂木乗っていられず走って行ったことから、連隊幹部に「先生走って来たかや」と声をかけられた。プライベートではこの頃結婚している。 1918年大正7年)、向学心駆られて東京高等師範学校東京高師、現・筑波大学)に進学する入学してすぐの校内長距離競走東京高師校庭 - 大宮氷川神社間)にて9位に入賞し注目を集める。ここで金栗四三出会い、その門下生として鍛えられ長距離走選手として頭角を現す1920年大正9年2月、金らが企画して開催され第1回東京箱根間往復大学駅伝競走東京高師代表として出場10区出走した東京高師復路スタート時点でトップと8分27秒の差がついており、茂木がたすきを受け取った時には1152秒に差は拡大していた。それでも茂木力走し、尾張町現・銀四丁目歌舞伎座付近)でトップ明治大学をとらえ、明治大と25秒の差で優勝した同年アントワープオリンピック日本代表選出されたことで、茂木山形県初のオリンピック選手となったマラソン日本代表には茂木・金加え茂木とともに第1回箱根駅伝出場した三浦弥平と、後に箱根ランナーとなる八島健三の4人が選ばれた。オリンピック出発前の5月山形帰省し親族友人らに出発前の挨拶行い母校山形師範山形新聞社にも立ち寄った5月14日横浜港出航してアメリカ経由アントワープ向かった8月アントワープオリンピック本番では10000mマラソン出場し10000mでは予選3組12位(最下位)、マラソンでは2時間5109秒4で20位(日本代表の中では金に次ぐ2位であったマラソン当日豪雨で、のやみ間を見てレース始まった途中で雷雨見舞われる悲惨なものであった。なお茂木登録名はZensaku Motegi であった1921年大正10年)の第2回箱根駅伝にも10区出場同年5月には上海市開かれた第5回極東選手権競技大会マラソン出場し2位獲得している。茂木にとってようやくつかんだ栄光であり、金栗四三をはじめマラソン仲間から祝福受けた1922年大正11年)の第3回箱根駅伝5区出場し区間2位であったが、早稲田大学麻生武治猛追されている。そのほか東京高師在学中は、800m1500m10000m日本記録樹立している。

※この「東京高師卒業まで(1893-1922)」の解説は、「茂木善作」の解説の一部です。
「東京高師卒業まで(1893-1922)」を含む「茂木善作」の記事については、「茂木善作」の概要を参照ください。

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