東京高師卒業まで(1893-1922)
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「茂木善作」の記事における「東京高師卒業まで(1893-1922)」の解説
1893年(明治26年)12月10日、山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる。茂木家は農家で、善作は三男であった。当時はまだ、農家の三男が普通に学校に通える時代ではなく、晩年の茂木は両親や兄弟にいつも感謝していた。1913年(大正2年)に山形県師範学校(山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する。山形師範では中等学校の中距離走大会でトップを取っており、山形県マラソン競走では4年連続で優勝を果たした。その後、蕨岡尋常高等小学校(現・遊佐町立蕨岡小学校)に赴任する。茂木は自転車を持っておらず、本楯の自宅から蕨岡小まで毎日走って通勤し、夏休みには学校近くにある小物忌神社の520段の石段をトレーニングに利用していた。また蕨岡小勤務時代に歩兵第32連隊で6週間の兵役に従事し、当時の汽車は遅すぎて茂木は乗っていられず、走って行ったことから、連隊の幹部に「先生走って来たかや」と声をかけられた。プライベートではこの頃結婚している。 1918年(大正7年)、向学心に駆られて東京高等師範学校(東京高師、現・筑波大学)に進学する。入学してすぐの校内長距離競走(東京高師校庭 - 大宮氷川神社間)にて9位に入賞し、注目を集める。ここで金栗四三と出会い、その門下生として鍛えられ、長距離走選手として頭角を現す。 1920年(大正9年)2月、金栗らが企画して開催された第1回東京箱根間往復大学駅伝競走に東京高師代表として出場、10区に出走した。東京高師は復路スタート時点でトップと8分27秒の差がついており、茂木がたすきを受け取った時には11分52秒に差は拡大していた。それでも茂木は力走し、尾張町(現・銀座四丁目の歌舞伎座付近)でトップの明治大学をとらえ、明治大と25秒の差で優勝した。 同年のアントワープオリンピックの日本代表に選出されたことで、茂木は山形県初のオリンピック選手となった。マラソン日本代表には茂木・金栗に加え、茂木とともに第1回箱根駅伝に出場した三浦弥平と、後に箱根ランナーとなる八島健三の4人が選ばれた。オリンピック出発前の5月に山形へ帰省し、親族や友人らに出発前の挨拶を行い、母校の山形師範や山形新聞社にも立ち寄った。5月14日に横浜港を出航してアメリカ経由でアントワープへ向かった。8月のアントワープオリンピック本番では10000mとマラソンに出場し、10000mでは予選3組で12位(最下位)、マラソンでは2時間51分09秒4で20位(日本代表の中では金栗に次ぐ2位)であった。マラソンの当日は豪雨で、雨のやみ間を見てレースが始まったが途中で雷雨に見舞われる悲惨なものであった。なお茂木の登録名はZensaku Motegi であった。 1921年(大正10年)の第2回箱根駅伝にも10区で出場、同年5月には上海市で開かれた第5回極東選手権競技大会のマラソンに出場し、2位を獲得している。茂木にとってようやくつかんだ栄光であり、金栗四三をはじめマラソン仲間から祝福を受けた。1922年(大正11年)の第3回箱根駅伝は5区で出場し区間2位であったが、早稲田大学の麻生武治に猛追されている。そのほか東京高師在学中は、800m・1500m・10000mで日本記録を樹立している。
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