東京高師卒業後とは? わかりやすく解説

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東京高師卒業後(1922-1974)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 15:51 UTC 版)

茂木善作」の記事における「東京高師卒業後(1922-1974)」の解説

1922年大正11年3月の東京高師卒業後は直ち教師となり、水戸高等学校(現・茨城大学助教授務めた茂木学生スポーツ強化乗り出し、特に対外試合重視する方針取り選手の育成努めた茨城県では1931年昭和6年)から1938年昭和13年)まで体育主事務めている。 その後満州国へ渡った茂木満洲国体育協会理事務め1933年昭和8年)には監督として満州国陸上競技選手14人を率いて日本渡り各地大会参戦し明治神宮体育大会観覧した。同年11月7日大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)の専務理事会に満洲国体育協会理事として出席し極東選手権競技大会に正式参加でなくとも招待形式参加満足することと、満州国参加問題日本極東選手権不参加または脱退することを望まない発言した。この発言中国反対極東選手権満州国参加できない情勢で、大日本体育協会招待形式参加検討していたことへの追認示したものであったが、翌1934年昭和8年2月10日満洲国体育協会はこの発言取り消して正式参加求め3月12日には日本側に満州国の正式参加実現するか、脱退して新し大会を開くように求めるという波乱のとなった一方本業では旅順工科大学助教授の後、1934年昭和9年)に吉林師道大学教授就任した後、1943年昭和18年)に承徳師道学校校長となった1946年昭和21年)に満州から引き揚げ故郷本楯戻り農業いそしむ傍ら日本体育協会(現・日本スポーツ協会役員山形県縦断駅伝競走審判長務め山形県スポーツ振興寄与した。しかし1950年昭和25年)に脳梗塞倒れその後長い闘病生活強いられ、娘(六女)と同居した。この間1964年東京オリンピックのために上京した金栗四三茂木の家まで訪れ談笑した。またアントワープオリンピック一緒に出場した斎藤兼吉何度茂木会い来ている。 1974年昭和49年12月24日午前9時、心不全のため酒田市内の女の家逝去81であった告別式12月26日酒田市常福寺営まれ、墓も常福寺にある。

※この「東京高師卒業後(1922-1974)」の解説は、「茂木善作」の解説の一部です。
「東京高師卒業後(1922-1974)」を含む「茂木善作」の記事については、「茂木善作」の概要を参照ください。

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