東京高師卒業後(1922-1974)
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「茂木善作」の記事における「東京高師卒業後(1922-1974)」の解説
1922年(大正11年)3月の東京高師卒業後は直ちに教師となり、水戸高等学校(現・茨城大学)助教授を務めた。茂木は学生スポーツの強化に乗り出し、特に対外試合を重視する方針を取り、選手の育成に努めた。茨城県では1931年(昭和6年)から1938年(昭和13年)まで体育主事を務めている。 その後、満州国へ渡った茂木は満洲国体育協会理事を務め、1933年(昭和8年)には監督として満州国の陸上競技選手14人を率いて日本に渡り、各地で大会に参戦し、明治神宮体育大会を観覧した。同年11月7日、大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)の専務理事会に満洲国体育協会理事として出席し、極東選手権競技大会に正式参加でなくとも招待形式の参加で満足することと、満州国参加問題で日本が極東選手権不参加または脱退することを望まないと発言した。この発言は中国の反対で極東選手権に満州国が参加できない情勢で、大日本体育協会が招待形式の参加を検討していたことへの追認を示したものであったが、翌1934年(昭和8年)2月10日に満洲国体育協会はこの発言を取り消して正式参加を求め、3月12日には日本側に満州国の正式参加を実現するか、脱退して新しい大会を開くように求めるという波乱の種となった。一方の本業では旅順工科大学助教授の後、1934年(昭和9年)に吉林師道大学教授に就任した後、1943年(昭和18年)に承徳師道学校の校長となった。 1946年(昭和21年)に満州から引き揚げ、故郷の本楯に戻り、農業にいそしむ傍ら、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)役員や山形県縦断駅伝競走審判長を務め、山形県のスポーツ振興に寄与した。しかし1950年(昭和25年)に脳梗塞で倒れ、その後は長い闘病生活を強いられ、娘(六女)と同居した。この間、1964年東京オリンピックのために上京した金栗四三が茂木の家まで訪れ、談笑した。またアントワープオリンピックに一緒に出場した斎藤兼吉は何度か茂木に会いに来ている。 1974年(昭和49年)12月24日午前9時、心不全のため酒田市内の六女の家で逝去、81歳であった。告別式は12月26日に酒田市の常福寺で営まれ、墓も常福寺にある。
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