東京高師入学と太平洋戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:36 UTC 版)
「安部一郎」の記事における「東京高師入学と太平洋戦争」の解説
佐藤の元で本物の柔道に触れたのを機に柔道の専門家を志すようになった安部は、1941年春に旧制前橋中学校を卒業すると、佐藤と同じ東京高師の体育科第二部に進学。同期には、旧制盛岡中学校(現・県立盛岡第一高校)を全国優勝に導いて名を馳せた川村禎三らがいた。2年次までは普通に授業を受けて柔道をする事ができたが、3年生になった頃には太平洋戦争に暗雲が垂れ込め始めて赤羽の被服廠や栃木県の農家に勤労奉仕に赴き、4年生になると学校に行く事も全くできなくなっていった。それでも安部は教員を養成する師範学校の学生という事で学徒出陣は免除されていたが、他校の学生が出征しているのに自分達だけが田の開墾をしている状況に耐えられず、自ら志願して陸軍の特別操縦見習士官を受験し、宇都宮市にあった陸軍飛行学校に入校した。 ここでの安部は3カ月の地上訓練を受けた後にパイロットとして養成され、わずか18時間の離着陸訓練を受けただけで1人で飛行機に乗り込み操縦を任されるという有様だった。その後1944年2月に朝鮮半島に渡った安部は海州の陸軍飛行教育隊で旧式の戦闘機を、更に同年5月からは平壌近くの朝鮮会文陸軍飛行教育隊で爆撃機の訓練を受け、戦況の悪化に伴いソウル方面へ移動して水原で終戦を迎えた。その後はアメリカ軍を避けて転々と移動し、釜山まで約200kmという所で武装解除。終戦を迎えたとはいえ軍刀を帯びていたため、釜山まで一昼夜かけて徒歩で移動し、釜山の港から福岡市へ帰国を果たした。1945年秋の事であったが、帰路に原子爆弾で焦土と化した広島市を見て敗戦を実感したという。
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