東京高師とオリンピック(1917-1921)
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「大浦留市」の記事における「東京高師とオリンピック(1917-1921)」の解説
1917年(大正6年)4月、東京高師文科第一部に進学し、恒例の校内長距離競走に出場するもまた33位と芳しくなかった。しかし、予科生の中では2・3位の成績であったため、徒歩部(現・筑波大学陸上競技部)に入部した。部では金栗や茂木善作らから刺激を得て練習に励んだ。なお高師新人大会では800mと1500mを制している。当時を振り返り、大浦は「マラソンブームの時代に上京し、東京高師という当時の黄金の環境に育ち、嘉納・金栗と言う偉大な師の薫陶を受け、順風に帆をあげた」と述べている。 1920年(大正9年)2月14日、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走に出場し、5区で区間賞を獲得して総合優勝に貢献した。4月17日-18日の第7回国際オリンピック大会関東予選競技大会では5000mで優勝(16分26秒8)、10000mで2位(34分43秒6)に入賞した。1週間後の第7回国際オリンピック第2次予選競技会では5000m(16分31秒80)と10000m(34分27秒0)の2冠を達成し、日本代表に選ばれた。5月14日に日本を発ち、8月、アントワープオリンピックの5000mと10000mに出場したが、5000mは決勝戦で途中失格、10000mは棄権に終わった。当時、周回遅れになった場合は失格、というルールがあったことが失格の理由である。日本代表の面々は、この闘いを永遠に忘れず、日本のスポーツ発展に尽くすことを誓い、主将の野口源三郎を中心として「白黎会」を結成した。帰京したのは11月7日であった。 オリンピック終了後、香川県に帰郷した1921年(大正10年)1月、坂出の青年団が主催して「オリンピック選手歓迎マラソン」が開催された。これが香川県におけるマラソンの始まりである。大浦は「どんな選手がいるか」、「どんな走りをしているか」を観察しながら少し遅れて出走したが、森井安平と浜田嘉平だけは追い抜けず3位となった。閉会式にて大浦は「ぜひ直ちに中央大会に出て下さい。必ず3着以内に入れます。」と出場選手を激励した。以降競技熱が高まり、1928年アムステルダムオリンピックに出場した山田兼松や1936年ベルリンオリンピックに出場した塩飽玉男らを輩出した。この年の第2回箱根駅伝でも5区に出場し、区間3位となった。
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