東京高師とオリンピックとは? わかりやすく解説

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東京高師とオリンピック(1917-1921)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 07:09 UTC 版)

大浦留市」の記事における「東京高師とオリンピック(1917-1921)」の解説

1917年大正6年4月東京高師文科第一部進学し恒例校内長距離競走出場するもまた33位と芳しくなかった。しかし、予科生の中では2・3位の成績であったため、徒歩部(現・筑波大学陸上競技部)に入部した。部では金茂木善作らから刺激得て練習励んだ。なお高新人大会で800m1500m制している。当時振り返り大浦は「マラソンブームの時代上京し東京高師という当時黄金の環境に育ち嘉納・金と言う偉大な師の薫陶を受け、順風に帆をあげた」と述べている。 1920年大正9年2月14日第1回東京箱根間往復大学駅伝競走出場し5区区間賞を獲得して総合優勝貢献した4月17日-18日第7回国際オリンピック大会関東予選競技大会では5000m優勝1626秒8)、10000m2位3443秒6)に入賞した1週間後第7回国際オリンピック第2次予選競技会では5000m163180)と10000m3427秒0)の2冠を達成し日本代表選ばれた。5月14日日本発ち8月アントワープオリンピック5000m10000m出場したが、5000m決勝戦途中失格10000m棄権終わった当時周回遅れになった場合失格、というルールがあったことが失格理由である。日本代表面々は、この闘い永遠に忘れず日本のスポーツ発展尽くすことを誓い主将野口源三郎中心として「白黎会」を結成した帰京したのは11月7日であったオリンピック終了後香川県帰郷した1921年大正10年1月坂出青年団主催してオリンピック選手歓迎マラソン」が開催された。これが香川県におけるマラソン始まりである。大浦は「どんな選手がいるか」、「どんな走りをしているか」を観察しながら少し遅れて出走したが、安平浜田嘉平だけは追い抜けず3位となった閉会式にて大浦は「ぜひ直ち中央大会出て下さい。必ず3着以内入れます。」と出場選手激励した以降競技熱が高まり1928年アムステルダムオリンピック出場した山田兼松1936年ベルリンオリンピック出場した塩飽玉男らを輩出したこの年第2回箱根駅伝でも5区出場し区間3位となった

※この「東京高師とオリンピック(1917-1921)」の解説は、「大浦留市」の解説の一部です。
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