本質主義/直観主義とは? わかりやすく解説

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本質主義/直観主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 03:33 UTC 版)

現象学」の記事における「本質主義/直観主義」の解説

フッサールの現象学原理的特徴として、本質主義直観主義指摘されるフッサールにおける本質主義は、事実的な経験体験に対して本質理念イデア)、また形相エイドス)などに優位を置く考えのことであるが、これは諸学基礎づけという現象学の厳密学としての目的起因している。数学論理学などを、主観的かつ経験的なものへと還元しようとする心理学主義生物学主義に対してフッサールはむしろそのような学が、そしてまたあらゆる学が、その厳密性の条件としてイデア的な論理法則存在を必要としていることを指摘し、これらの究極的な規則がもし存在しないであれば、厳密学はおろかわれわれの認識妥当性をたもつものはなにもなくなってしまい、相対主義懐疑主義に陥ってしまうことへ注意うながしたさらにはそのような相対主義的な考え妥当性をたもつためには、みずからが主張している相対主義的な考え自体否定しなければならない逆説フッサール指摘した。そして、意識をその具体的な相関者との関係ではなく意識とその相関者との相関関係自体、すなわち志向性という本質的なありかたにおいて捉えようするところにもまた、現象学本質主義的な性質あらわれている。しかし、フッサール論理法則思考規則イデア的な本質存在認めるという点ではたしかにボルツァーノフレーゲ同じく論理学イデア主義立場にあるが、それらのイデア素朴な実体化避けるという点では、プラトン実念論ではない。さらに発生的現象学いたって本質地平性とその受動的な構成問われることとなり、ここにフッサール以降現象学展開していった事実性の現象学萌芽みられるもうひとつ特徴である直観主義は、直観(独:Anschauung)によって現象あるがままに捉えその本質を認識しようとする現象学方法的態度のことである。この態度は、フッサール研究格率である「事象そのものへ」に表明されている、一切理論的先入見捨て去り事象そのものへの還帰を目指すという現象学本質的な特徴をあらわすものでもある。それゆえ現象学は、およそあらゆる理論からの演繹的展開を拒み記述分析という帰納的な態度をとることになる。フッサールの現象学いくたびかの深刻な転回を経るのも、この帰納的かつ根源的な態度によって、みずからの仕事への現象学的反省強いられたからである。その点で、直観フッサールにおける現象学のもっとも枢要な概念ということができる。上記のように本質は学の成立のためには必要不可欠存在であるが、その本質はいかにして認識しうるか、という認識作用主観性認識内容客観性への問いが、この現象学的直観というもっとも根源的な認識方法への還帰を必要としたといえるフッサールもいうように「すべての原的に与え働きをする直観こそは、認識正当性源泉である」ので、直観とは、ただの感覚感性直観のことではなく対象それ自体が現に意識与えられ充実された志向のことである。フッサールにおいては意味とは形相的あるいは理念的なのであるが、この意味にのみ関わり対象への関係が実現されていない意識働きのことを空虚な意味志向空虚な意味作用などと呼ぶ。この空虚な志向充実してくれるのが対象直観であり、単なる思念としての対象への関係が対象直観同一化されることによって顕示化されることであるが、そのことまた、意味志向が基づけられるという表現によってあらわされることもある。この対象自体がみずからを意識へと与えありかたのことを自体能与(あるいは自体所与)といい、自体能与を志向性においてとらえて明証(独:Evidenz)ともいわれる明証にはさまざまな程度があり、それに応じて必当然的や十全的などの分類なされるが、本質的には「存在するものとその様態とについての経験」であり、程度はさまざまであれすべての経験明証性を持っているということができる。 たとえば眼前林檎ありありと想像するような志向と、現にいま眼前林檎知覚している充実された志向では、その林檎という対象へと向かう志向充実度合いにおいて、後者のほうが明証的である。しかしもちろんこれは林檎という対象への志向が、知覚という直観によって充実されたということであり、眼前にある林檎という超越的なものの現実的な存在そのまま証明するものではない。つまりこの現にいま与えられ感覚与件が、志向性において意味把握的に統握され活性化され、そのかぎりでこの林檎という対象与えられた。そして、この志向された対象対象そのものとして現在的かつ直接意識あらわれることこそが、対象明証的な自体能与である。だがこのような明証的な知覚も、その対象すべてがありありと十全的にあらわれているわけではなく、いまだ知覚されていない部分持っている点や、想起想像などの準現在的直観関係している点において、完全に明証といえるわけではない。もし対象現実的な存在証拠である十全的かつ完全な明証与えられるとすれば、それは内在的な直観よるものであり、外的知覚つまり超越的な直観によってそれが与えられることはなく、超越的な対象現実的な存在定立はその可能性他の可能性比して高い場合なされるという蓋然的なものにとどまる。 しかしまた、われわれの認識妥当性根源的には明証与え直観によってしかたしかめることができず、それゆえ明証直観こそが「一切の諸原理原理」といわれ、その明証性の妥当性すらも、反省的な明証直観によって誤り正していくことでしか証明することができない。そして、現象学深化とともに、この明証直観という概念、つまり理性の視作用そのものが、フッサールにとって主題的に解明されるべきものとなっていく。この理性究明こそが発生的現象学であり、そこでは直観直接性よりも地平媒介性優位占めるようになっていく。このようにフッサール単なる直観主義から脱却していくが、それでもなおフッサール直観反省という現象学立場堅持し、そこには事象そのものありのまま捉えようとする現象学本質的な志向みられるまた、明証真理相関的な概念であるが、イデア素朴な実体化避け現象学真理それ自体一挙に手に入れることはできず、ただ直観によって近づいていくことしかできないとされる。しかし、十分に明証的な直観どれほど反復されても不変であるからこそ、フッサールによって「真理体験」とも呼ばれるまた、フッサールとその現象学本質主義本質事実の関係)については、フッサール以降現象学の展開において、さまざまな議論立場生まれている。ハイデガー存在本質存在事実存在のふたつに分かつことから西洋存在論、そして形而上学始まったとしており、このふたつが分かたれる以前始原存在へと近づくことが必要である、と説いている。メルロ=ポンティは、われわれの事実性を認識しまた克服するための相対化本質性の領野が必要とされ、本質目的ではなく手段である、と述べている。

※この「本質主義/直観主義」の解説は、「現象学」の解説の一部です。
「本質主義/直観主義」を含む「現象学」の記事については、「現象学」の概要を参照ください。

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