本質的問い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「本質的問い」の解説
ハイデッガーのいう歴史の中で存在は「イデア」、「実体」、「主体」、「意識」と名付けられてきた。名前は他にもあり、例えばニーチェは「力への意志」と呼んだ。これは「形而上学的」な西欧思想の歴史であり、そこでは「存在」は次第に忘却されてきた。しかしそれは正確には自己を退かせてきたことであり、プラトンやアナクシマンドロスが論理や観察による推論、計算、証明を求め始めるや、存在は忘却の可能性へと追いやられてしまった。 形而上学はどこで完結するか。1900年に没したニーチェの著作において。取って代わったのは何か。 「テクノロジー」 テクノロジーは『存在忘却(Seinsvergessenheit)』の最終段階である。 ハイデッガーのテクノロジー批判は単なる反モダニズムでもエコロジー推進でもないもっと本質をついた批判である。しかし、ハイデッガーは本質的に思索するなかで、不用意なイメージや反動的な田園賛美や農村ノスタルジーを駆使し、また、経済的、社会的、政治的、倫理的吟味にも欠ける。ハイデッガーからすれば、それらは完結した形而上学やテクノロジーの考えるべき事だったからそこには目を向けなかった。決定的に重要な問いは一つしかない。 人間は数え上げるのが好きな生き物だ。人間性の本質はこれが全てだろうか。それとも、人間の性質、存在への所属、存在の本質といった考える価値のある部分が残っているのだろうか。それが問題だ。これは思索についての世界的問題である。これに答えるか否かに地球と、そこに暮らす人間実存の将来がかかっている。
※この「本質的問い」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
「本質的問い」を含む「マルティン・ハイデッガー」の記事については、「マルティン・ハイデッガー」の概要を参照ください。
- 本質的問いのページへのリンク