テクノロジー批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「テクノロジー批判」の解説
ハイデッガーにとって思索に必要なことの代表がテクノロジー批判だった。ハイデッガーは1950、60年代を通じて現代テクノロジーの「際限のない支配」を指摘し続けた。測定し、数え上げ計算する論理が全てに適用され、人間の活動が「効率」(最小出力で最大出力)で評価され、自然は支配し、操作する対象となる。 テクノロジー的思考は自己に限界を設定しない。無限に拡張可能なので他の思考形態を侵食する。世界と人間は無節操にテクノロジー化され、人間どうしのやり取りまでが「電子的に思考し計算する機械」に、それ自体が目的となった「情報」を撒き散らす機械に任される。 ハイデッガーはまた「テクノロジー」の失われた意味も探し出す。この言葉が製造活動に応用された科学的思考を意味するようになったのは、1830年代のことだった。しかし、テクノロジーはギリシャ語の『テクネー(τεχνη techné)』から派生した言葉である。 『テクネー』は職人の活動と技能を意味するだけでなく「精神の芸術」や美術をも指していた。『テクネー』にはまた、詩的ニュアンスも、つまり『ポイエーシス(Ποιητικῆς)』の意味もあった。 ギリシャ語の『ポイエーシス』は「生成する、現在させる」ことを意味する。これはあらゆる職人作業に、また芸術に当てはまる。テクネーとポイエーシスは根源的開示であるアレーテイアの言葉である。現代の「テクノロジー」はこの意味を失っている。テクノロジーも「開示」はするが、ポイエーシスを消し去るやり方でしか開示できない。 テクノロジーはポイエーシスではなく、配置する形で機能する。配置されることによって事物は完全に「利用可能なもの」として現れる。個物は完全に使用、採取、操作などが可能なものとして開示される。したがって、全てはいつでも利用できる『在庫Bestand』、資源、供給源となる。テクノロジーの時代にあっては在庫とは単に現実にあるものを意味する。 我々の現実は『在庫品』だ。 配置することは、自然に「戦いを挑む」こと、「手を加える」ことである。 農業は今や、機械化された食糧産業である。大気は手を加えられて窒素が抽出され、大地は鉱石を、鉱石はウラニウムを抽出される。ウラニウムは手を加えられ核エネルギーを抽出される。手を加える事によって内部のものが露呈され、最小費用で最大収量を得るべく努力が続く。
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