木曾殿最期
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寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。 戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、21日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」 と評した。享年31。 『平家物語』には、義仲が幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れ、兼平との語らい等、巴や兼平の義仲へのお互いの苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。 義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれた。義仲の家系は絶えたとされるが諸説あり、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。
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木曾殿最期
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『平家物語』の「木曾殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。また、この場面の兼平の矛盾した言い方や、「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます)」の武士たる心構えを伝える言に、その情況に応じての、兼平の義仲への苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。 「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや(いつもは何ともない鎧が、きょうは重くなったぞ)」と言う義仲に対し、 「それは御方(みかた)に続く勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候らめ。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召し候べし。ここに射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢(ふせぎや)仕り候はん。あれに見え候は、粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静に御自害候へ(それは殿に続く軍勢がないので、臆病になられたのでしょう。兼平一騎を、殿の武者千騎と思ってくださいませ。ここに矢の七本や八本が残ってございますので、これでしばらくは防ぎ矢を放つこともできましょう。あちらは粟津の松原と申します。殿はあの松原の中に入られ静かに御自害なさいませ)」と述べ、 義仲が「所々で討たれんより、一所でこそ討死もせめ(ばらばらで討ち死にするより、一緒に討ち死にしよう)」と言うと、 「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。御身も労(つか)れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。云ふ甲斐なき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、某が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。唯理を枉げて、あの松の中に入らせ給へ(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます。殿はお疲れでございます。御馬も弱ってございます。ふがいない者が郎党に組み落とされて、討たれたりしたら、さしも日本国に鬼神と言われた木曽義仲を、だれかの郎党の手にかかって討ち取ったりと言われることは悔しいことです。そこは無理を承知であの松原にお入りくださいませ)」と述べた。 義仲が討たれると、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ(いまは誰をかばうために戦をすべきであろうか。東国の武士どもよ、これを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ)」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。 (現代語簡訳:戦前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静に助言し、義仲が自害する時間稼ぎをした。義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言った。)
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