書院造りと建具
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広辞苑の「書院造り」の項によると、「室町中期からおこり桃山時代に完成した、武家住宅建築の様式。和風住宅として現在も行なわれている。接客空間が独立し、立派に作ってある。主座敷を上段とし、床・棚・付書院を設ける。柱は角柱で畳を敷きつめ、舞良戸・明障子・襖を用いる」とあり簡潔にして要を得ている。 戦国時代の京都を描いた、町田本や上杉本の「洛中洛外図」屏風には、室町幕府足利将軍の邸宅や細川管領の屋敷も描かれている。寝殿造りとは構成がかなり異なった、成立期の書院造りの建築様式を伝えている。 建具については、腰高明障子や舞良戸そして襖障子などが多く使用されている。足利義政の東山殿会所を復元した平面図によると、建具は全て引き違いとなっており、内部仕切は全て襖障子、外部南面と西面が腰高明障子であつた。 近世初期の書院造りの遺構である、園城寺勧学院客殿(慶長五年1600年)や、光浄院客殿(慶長六年)では、舞良戸の内側には明障子を立て込んでおり、妻戸や蔀戸の内側にも明障子が用いられた。簡素な造りでは、舞良戸と明障子の代わりに、腰高障子で間に合わせることが多かった。 書院造りの特徴は、寝殿造りと比較すると、マルチパーパスの大広間様式から、内部を大小いくつもの室に仕切り、用途に合わせた機能的な構成となった。間仕切りの必要から、柱は丸柱から角柱になり、これまで母屋(身屋:もや)と廂の柱間寸法に大小の別があったが、畳の普及に伴い次第に柱間一間は六・五尺に、応仁の乱以降建物全体を通じて統一されていった。 この時代には一間四方(二畳)を一間といい、六間(むま)といえば畳十二畳の部屋を意味した。主室(座敷)の構成は、正面に床と違棚を設け、縁側寄りに付書院または平書院を設け、反対側に帳台構を造った。建具はほとんど引き違いで、室内の間仕切りは、襖障子が使用され、縁側回りは三本溝の敷居にして、舞良戸の内側に明障子か腰高障子を一枚入れた。また、長押を室内に回して、彫刻欄間などを設けた。 室町時代の中期頃から畳が急速に普及し始め、書院(書院造りの座敷、又は居間兼書斎)などの小室には畳を敷きつめるようになったが、会所などの大広間では、周囲に畳を追回しに敷いて、中央は板敷を残していた。『蒙古襲来絵詞』や『法然上人絵伝』には畳を追回しに敷いた状況が描かれている。そして、畳敷から框の分だけ一段高い上段の間が造られ、身分や地位に応じて使い分けられた。この上段の間を床(とこ)の間といい、現在では掛け軸を掛け生け花を生ける床の間の起源である。 畳は起源的には寝具であったが、平安時代の貴族社会では、そこに座る人の身分地位を表す厳密な用い方が定められ、身分の高い人ほど座る畳も広く厚さも厚く、畳を重ねて使用した。また、畳の縁の色や文様を変えて、身分による厳密な用い方を行なった。室町時代の武家社会でも、畳は地位権力を表す為に、象徴的に利用された。
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