昭和 繊維問屋街時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 14:01 UTC 版)
「長者町繊維街」の記事における「昭和 繊維問屋街時代」の解説
長者町繊維街が繊維問屋街として飛躍的な発展を遂げたのは、大正末期から昭和にかけてである。店の主が先頭に立ち、問屋でありながら「現金取引」と「薄利多売」による商法を展開で顧客をつかみ、やがて長者町は日本有数の問屋街へと発展を遂げた。1936年(昭和11年)の記録によれば長者町繊維街には48軒の商家が軒を連ねた。 1945年(昭和30年)3月19日、名古屋大空襲により長者町繊維街を含む名古屋城下町一帯は焼失する。戦後、焦土を片付けて再び集った商家は多くは仮店舗で「現金問屋」の看板を掲げた。本町通りが進駐軍によって日本人のあらゆる車や馬が通行禁止とされたのに対し、往来自由であった長者町繊維街に客の流れが集中した。1947年には横井栄一郎の中栄産業が商工省の「絹人絹統制業務代行指定」をうけ、繊維の取り扱いを始めた。1950年(昭和25年)、38社が任意組合として「長者町織物同盟会」を結成。さらにその発展として、1951年(昭和26年)に75社が加盟し中小企業等協同組合法を適用した「長者町織物協同組合」へ移行した。第二次世界大戦以前には料亭や芸妓置屋が軒を連ねた長者町繊維街は、糸へん景気などを受けて日本有数の繊維製品問屋街へと姿を変えた。 長者町の近くに名古屋市営地下鉄東山線伏見町駅が開業することが決まり、1956年に伏見町駅と繊維街を結ぶ地下街の建設のために長者町地下街繊維問屋協同組合が結成され、1957年11月16日に伏見地下街が開業した。 一方1951年(昭和26年)5月に、各社の商報を新聞形式にまとめた「長者町新聞」の発行を開始。繊維業界の動きや標準相場、店舗案内、長者町だよりなどを盛り込み、昭和40年代には全国有数の業界紙へと成長した。あわせてどんぐり教室や給食センターの開設、犬山市に長者町団地を造成し、1968年(昭和39年)には青年長者町会(青長会)を発足させるなど、従業員の福利厚生の充実を図った。 1966年、復興土地区画整理事業により住居表示が行われ、上長者町、下長者町の町名が消滅した。これに反対する繊維問屋有志が名古屋市に請願書を提出し、1968年に名古屋地方裁判所に町名変更取り消しを求める訴訟を起こした。しかし1973年に最高裁判所が上告を不適法とし、町名変更取り消しは認められなかった。 1968年(昭和43年)、長者町は道路を拡張し、東西両側の歩道を1メートルずつ削って4車線となる。1974年(昭和49年)4月7日にはそこを歩行者天国として、「長者町タウンフェスティバル」を開催した。この頃には、約100社の問屋のなかで、現金問屋は1割程度となっていた。 商家の数は戦前と比べて飛躍的に増え、昭和40年代には名古屋市内に40超の問屋街があるなかで、繊維卸問屋街といえば長者町と呼ばれるようになった。1970年前後には100軒近くの問屋があった。
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