日本遷都史
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飛鳥時代 『日本書紀』によれば大化元年(645年)6月、中大兄皇子らが政変を起こし、新たな政治体制が構築された(乙巳の変)。新政府は同年12月9日に難波長柄豊碕宮に遷都を行い、翌大化2年(646年)元日、孝徳天皇は改新の詔を発しその第2条で「初修京師」と初めて首都を定め、難波長柄豊碕宮を首都とした。 斉明天皇元年(655年)1月、斉明天皇は難波長柄豊碕宮遷都以前の宮である板蓋宮で即位、都は飛鳥に戻った。その後、同年冬には川原宮に、翌斉明天皇2年(656年)には後飛鳥岡本宮と飛鳥の中で首都が営まれた。天智天皇は白村江の戦い敗北後の天智天皇6年(667年)、内陸部の近江大津宮に遷都を行ったが、壬申の乱の後の天武天皇元年(672年)、飛鳥浄御原宮に遷都。都は再び飛鳥に戻った。 天武天皇12年(683年)12月17日、天武天皇は「複都制の詔」を発した。まず難波長柄豊碕宮廃絶後も外交拠点として存続していた難波宮を副都とし、更に畿内と信濃国に副都を設けるために使節を派遣した。しかし畿内と信濃への副都設置は実施されることなく終わった。 藤原京遷都は難産だった。『日本書紀』の藤原京遷都に関する最初の記述は天武天皇5年(676年)の「新城」建設に関するものである。その後、遷都計画は中断と再開を重ねた後、持統天皇8年(694年)12月に藤原京への遷都が行われた。 奈良時代 藤原京は日本で初めて条坊を整備した画期的な都であったが、その地勢の悪さから破棄され、和銅3年(710年)3月10日、元明天皇は平城京に遷都を行った。平城遷都に関しては「大宝律令」の制定を契機に、中央集権国家にふさわしい首都を建設しようとしたともされている。平城京は藤原京に続いて条坊を備えた本格的な都城として造営された。 天平12年(740年)、聖武天皇は伊勢国、美濃国と関東を行幸後、平城京へ帰途の途中の同年12月15日、恭仁京に遷都を行った。その後、天平16年(744年)2月26日に難波京 、更に天平17年(745年)1月には紫香楽宮へと目まぐるしく都を移転させた後、同年中に平城京へ帰還した。 延暦3年(783年)11月11日、桓武天皇は長岡京遷都を行った。しかし延暦13年(794年)に6、8月と続けて水害に見舞われ同年中に平安京に都を移した。 平安時代以降 延暦13年(794年)10月22日、桓武天皇は新たに平安京を都に定めた。 それから約四百年後の治承4年(1180年)6月2日、平清盛は福原京遷都した。しかし福原京は短命に終わり、同年11月25日には平安京に再遷都された。その後京都は千年以上日本国の首都であり続けたが、維新政府は明治時代になって江戸を東京と改め、ここを首都とした。 日本の遷都一覧遷都先施行日備考板蓋宮斉明天皇元年(655年)1月 川原宮斉明天皇元年(655年)冬 後飛鳥岡本宮斉明天皇2年(656年) 近江大津宮天智天皇6年(667年)3月19日 飛鳥浄御原宮天武天皇元年(672年)冬 天武天皇12年(683年)12月17日、詔により難波宮を副都とする。 藤原京持統天皇8年(694年)12月6日 平城京和銅3年(710年)3月10日 恭仁京天平12年(740年)12月15日 聖武天皇「彷徨5年」の始まり。 難波京天平16年(744年)2月26日 紫香楽宮天平17年(745年)1月 平城京天平17年(745年)9月11日 長岡京延暦3年(784年)11月11日 複都制終了。 平安京延暦13年(794年)10月28日 福原京治承4年(1180年)6月2日 平安京治承4年(1180年)11月25日 東京府慶応4年/明治元年(1868年)? 施行日不明。 その他 第二次世界大戦後の首都機能移転の議論については「首都機能移転」を参照 複都制については「複都制#日本の複都制」を参照
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